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ラストエンペラーの川島芳子は映画とは違っている

川島芳子さんを知っていますか

川島芳子さんは1907年清朝の皇族である粛親王の第14王女として北京に生まれました。

本名は愛新覚羅顕し。

時代は清朝末期に当たり、彼女の父親は宮廷の中で、 清朝が時代を生き延びるために旧来の絶対君主制を取るのではなく日本の明治維新のような立憲君主制にすべく奮闘していました。

辛亥革命に翻弄された前半の人生

しかし、 芳子が4歳の時、辛亥革命が起こり、清朝崩壊しました。

父親は 芳子に清朝の復活の望みを託し、7歳の時に父親と親交のあった旧松本藩士の川島家の養女としました。 川島氏は義和団の乱の制圧の後、治安の乱れた北京の警察庁のような役割をして治安を維持したために父親から信頼されていました。芳子は日本で 育ちました。長野県松本市浅間温泉に居住していました。

松本高等女学校に入学し馬に乗って通学していた エピソードは有名です。

20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するがまもなく離婚しました。 一説にはその蒙古族の将軍の息子は清朝の復興にあまり熱心ではなかったためだと

も言われています。

2つの祖国に裏切られた人生

その後 清朝の復活を願い日本軍に協力して様々な工作に関わったと言われました。 満州国は建国されましたが、 溥儀は傀儡であり、清朝の復活とはおよそ縁遠いものになっていました。 芳子は用済みとなり利用されるだけ利用されたあと、 日本国軍部から始末するようにと命令が出ていました。

1948年中国国民党政府により 中国人でありながら日本に協力した裏切り者として銃殺に処せられました。42歳でした。

銃殺刑後、衣類のポケットに詩が残されていました。

家あれども帰りえず。

彼女は中国と日本2つの祖国を持ちながらどちらにも帰ることができない

彼女の遺骨は現在長野県松本市に葬られています。

映画ラストエンペラーで描かれた川島芳子は実際とは違っている

ベルトリッチ監督映画のラストエンペラーでは川島佳子は日本軍と協力して婉容皇后とレズビアンであったり婉容皇后にアヘンを勧め自らもアヘン中毒だったと描写されています.

川島芳子と高校時代同級生だった人たちの話によれば彼女はレズビアンの性癖はなかったし、知性的で厳格な人間でアヘンに手を出すような人間ではなかったと言われています。 何よりも父親 は日本の明治維新にならって清朝皇帝による立憲君主政を願って自らの子供たちに日本語を学ばせ教育していた人間です。 その父親の言いつけを守り、 人生のすべてを清朝の復興にかけていた人間が、清朝皇后をアヘン中毒にするわけがありません。

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書籍でも真実は語られていない

また17歳の時に断髪をして男装していたことから養父の川島に犯されたとの本もあります。 川島芳子は清朝の再興のために蒙古の将軍の息子と政略結婚を考えていた人間です。 いざとなったら自分も戦うぞという覚悟の表れと思います。また川島は、 日本をロシアの侵略から守るために満州国を建設しようと考えていた人間です。そのような人間が清朝のお姫様を強姦するわけがありません。川島は、義和団の乱の時に連合国側に紫禁城が砲撃されるのを防ぐために単身交渉に当たって成功した人間です。 また川島の故郷である松本市では清朝の優れた文化遺産を研究していました。

私の高校の恩師も日本が中国を侵略したとか言われているけれども、中には清朝の文化遺産を守るために必死で努力していた日本人がいるということを忘れないでほしいと言っていました。

川島芳子を偲ぶ会というのがあります

川島芳子は日本人から中国人からイタリア人から様々な偏見を持って語られてきました。 しかし私はそのような興味本位の取り上げ方ではなく川島芳子の本当の人生と苦しみ、 そしてそこから私たちへのメッセージを知ってもらいたいと思いました。

毎年3月25日頃松本市のお寺で法要があります

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