2000年続いた皇帝制度の終焉。その舞台裏にあった権力闘争と、最後まで抵抗した人々の物語。
混乱の始まり
1911年、辛亥革命の炎が中国全土を包み込んでいました。清朝は存亡の危機に立たされ、宮廷内部は混乱に陥っていました。
この歴史的転換点で、軍事力を一手に握っていた袁世凱は、冷徹な計算のもと自らの野望を実現しようと動き始めます。その目的は、幼い皇帝溥儀を退位させ、自らが新しい中国の支配者となることでした。
最後まで戦おうとした二人の王族
宮廷で開かれた御前会議。多くの臣下たちが時代の流れを読み、退位を受け入れようとする中、最後まで抵抗の声を上げた二人の王族がいました。
恭親王溥偉と肅親王善耆。
彼らは袁世凱の内閣を打倒し、王族による新しい内閣を樹立して戦い抜くことを強く主張しました。しかし、彼らの忠誠心と決意も、すでに清朝に背を向けていた時代の大きな流れを止めることはできませんでした。
袁世凱の冷酷な圧力
袁世凱は自らの野望を実現するため、徹底的な準備を進めました。
大量の軍隊を北京に集結させ、北京警察の完全な掌握に成功。そして、警察権力を使って退位に反対する王侯たちに圧力をかけ始めたのです。威嚇だけでなく、暗殺の脅しまでかけるという強圧的な手段の前に、多くの王侯たちは恐怖に屈し、退位を受け入れざるを得ませんでした。
皇室内部の苦渋の決断
溥儀の父である載灃は、光緒帝の弟という立場にありながら、最終的には隆裕太后の命により、袁世凱への全権委譲を認めることになります。
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隆裕太后は光緒帝の皇后として、皇室の家長的立場にありました。彼女の決断は、幼い溥儀と清朝皇室の命を守るための、苦渋に満ちた選択だったのか、それともお金のためだったのかわかりません。
最後の抵抗者たちの逃亡
袁世凱の標的となった二人の王族は、命を守るため北京を脱出します。
肅親王善耆は日本の援助を得て、軍艦で旅順へと逃れました。恭親王溥偉はドイツの支援を受けて青島に身を隠します。
しかし、彼らは単に逃亡したわけではありませんでした。海外に渡った後も、清朝復活の夢を諦めず、復辟運動を続けていくことになるのです。
1912年2月12日―運命の日
肅親王善耆が北京を去った翌日、歴史的な瞬間が訪れました。
隆裕太后が溥儀の退位証書を公表。同じ日、袁世凱は中華民国の大統領に就任しました。
こうして、2000年以上続いた中国の皇帝制度は、わずか6歳の幼き皇帝の退位とともに、静かに、しかし決定的に幕を閉じたのです。
おわりに
清朝の終焉は、単なる王朝交代以上の意味を持っていました。それは、何千年も続いた皇帝制度そのものの終わりであり、中国が近代国家へと生まれ変わる痛みを伴った転換点でした。
最後まで王朝に忠誠を尽くした二人の王族の姿は、時代に翻弄されながらも信念を貫こうとした人々の、悲劇的でありながら誇り高い物語として、歴史に刻まれています。