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春日大社大鎧展と自天王の物語 – 南朝最後の皇子と縹糸威筋兜

春日大社で開催されている大鎧展で、特別に注目したい遺品があります。それは「縹糸威筋兜(はなだいとおどしすじかぶと)」という重要文化財の兜です。この兜は、自天王という歴史上の悲劇的な人物の遺品と伝わっています。

自天王とは何者か

自天王(1440年~1457年)は、南朝最後の天皇である後亀山天皇のひ孫にあたる人物です。南北朝統一(1392年)後の複雑な政治情勢の中で生きた、まさに歴史の狭間に立った皇子でした。

南北朝統一時には、南朝と北朝が交互に即位するという約束がなされていましたが、この約束は守られませんでした。そのため、南朝の再建を図る勢力が現れ、これが「後南朝」と呼ばれる運動でした。自天王は、この後南朝の第2代天皇として擁立されました。

二つの大事件 – 神器をめぐる攻防

禁闕の変(1443年)

1443年10月16日、後南朝勢力は大胆にも京都の内裏を襲撃しました。この事件で、三種の神器のうち宝剣と神璽(勾玉)の二つを奪い、比叡山へと逃れました。しかし、10日後の26日には鎮圧され、宝剣は幕府によって奪還されましたが、神璽はそのまま奪い去られたままでした。

長禄の変(1457年)

そして運命の1457年12月18日。赤松氏の遺臣たちが後南朝の行宮を襲撃し、自天王と弟の忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討ち取りました。

この襲撃の背景には、御花園天皇と足利義政からの密約がありました。「両宮を殺害し神璽を奪回すれば、赤松家の再興を認める」という条件だったのです。

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しかし、事態は複雑に展開します。赤松氏の遺臣らは一度は神璽の奪取に成功しますが、吉野の郷民らの猛烈な追撃を受けて討死してしまいます。吉野の郷民は、自天王の首と神璽を奪い返したのです。

翌年3月、赤松氏の遺臣らは改めて神璽の奪回作戦を決行し、紆余曲折を経て、最終的に神璽は幕府の手に戻りました。

川上村に眠る自天王

わずか18歳の若さで非業の死を遂げた自天王。しかし、その後の物語もまた心を打つものです。

川上郷の郷士たちが自天王の首を取り返し、川上村神之谷の金剛寺境内に手厚く葬りました。そして驚くべきことに、村では自天王をしのぶ「御朝拝式」が560年以上にもわたって続けられているのです。

毎年2月5日、金剛寺境内の宝物庫が開扉され、自天王の遺品である兜などが拝されています。それが今回春日大社で展示されている「縹糸威筋兜」なのです。

歴史の重みを感じて

この兜を目にするとき、私たちは単なる武具としてではなく、激動の時代を生きた一人の若い皇子の生涯と、彼を慕い続けた人々の想いを感じ取ることができます。

南北朝の統一から約65年後、なおも南朝の復活を夢見て散った自天王。そして彼の死後560年以上も続く供養の営み。歴史の教科書では数行で済まされてしまうような出来事の背後に、これほど深い人間ドラマがあったとは。

まことに素晴らしいと思います。

 

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