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川島芳子の墓と川島浪速の足跡

川島芳子の墓はどこに

川島芳子の墓は、長野県松本市蟻ヶ崎の正麟寺にあります。川島浪速の墓に合葬される形で眠っています。

2023年3月、「川島芳子を偲ぶ会」のメンバーに案内していただき、初めてお参りすることができました。墓のそばには、肅親王善耆の書が刻まれた石碑が立っており、川島家と清朝皇族との深い縁を今に伝えています。

川島浪速とは

川島浪速は1865年(江戸時代末期)、松本藩士の家に長男として生まれました。

1875年(明治時代)、父母とともに上京。1882年には東京外国語学校に入学しますが、その後中退して中国へ渡ります。

日清戦争では陸軍通訳として活躍しました。

紫禁城を救った男

1900年、義和団事件が勃発します。川島浪速は天津から上陸し、北京へ突入しました。

当時、連合国軍は紫禁城を砲撃しようとしていました。しかし川島浪速は、貴重な文化遺産を守るべきだと考え、中国語で紫禁城の守備兵を説得。開城させることに成功します。

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こうして、紫禁城は戦火から守られたのです。

肅親王善耆との出会い

1901年、講和条約が締結されました。

清国政府は、日本軍が創設した警察制度を導入して北京の治安維持を図りたいと考え、日本軍に川島浪速の派遣を要請しました。

清朝は川島浪速を清朝の官吏に任命。川島浪速は北京警務学堂の総監督となり、警察官の養成と清朝警察制度の確立に尽力しました。

その直属上司が、肅親王善耆だったのです。

こうした経緯の中で、肅親王善耆は川島浪速の人物と能力を高く評価し、深い信頼関係が築かれていきました。この二人の絆が、後に川島芳子の運命を大きく左右することになるのです。


長野県松本市正麟寺を訪れる機会があれば、ぜひ川島芳子の墓にお参りしてみてください。激動の時代を生きた一人の女性と、日中の歴史をつないだ川島浪速の足跡に思いを馳せることができるでしょう。

 

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