清朝の後宮には、想像を絶する残酷な刑罰が存在していました。その名も「一丈紅」。美しい花の名を持ちながら、実際は骨が砕け、血しぶきが高く噴き出すまで打ち続ける極刑だったのです。
「一丈紅」とは花の名前
一丈紅という名前は、本来は中国原産の美しい高草を指します。
高さ約2から3メートルに達し、赤、ピンク、紫などの華やかな花を咲かせることから名付けられた、幸運を象徴する植物でした。
しかし清朝の宮廷では、この美しい名前が最も恐ろしい刑罰の一つとして使われていました。
一丈紅刑の実態
- 木の板で腰を何度も打ち続ける その痛みは耐え難い
- 脊椎を折って死に至らしめる
- 打撃回数に制限がない
- 骨が露出し、血しぶきで全身が紅く染まるまで続く
通常の鞭打ちとは異なり、この刑罰には回数の上限がありませんでした。
処刑人は被害者の骨が見えるほどになり、全身が血で真っ赤に染まるまで打ち続けたのです。
血しぶきが高さ2から3メートルまで達することから、「一丈紅」という名の由来となりました。
この刑罰を見た者は恐怖に震えるそうです。
なぜ後宮にこのような残酷な刑罰が?
清朝初期、皇帝は後宮における全ての罪を裁き、刑罰を定める絶対的な権力を持っていました。
しかし時代が進むにつれ、皇太后の地位が高まり、後宮の刑罰にも介入するようになります。
皇太后は後宮を支配し、自らの権力を守るために、残酷な家法を制定しました。
その最たるものが「一丈紅」刑罰だったのです。
重要なポイント:
- この刑罰は後宮専用で、最高権力者のみが執行可能
- 執行は、常に具体的な状況に基づいて行われ、誤りでないことを確認する
- 皇后、皇太后、皇帝だけに執行権限があった
- 清朝数百年の歴史で、実際に執行されたのは乾隆帝の治世にたった一度のみ
ですから、宮廷の諍い女にあるように華妃が、他の側室に「一丈紅」刑罰を与えることはできないはずです。
また側室は名家の子女ですから、人前で服を脱がされる「一丈紅」刑罰を与えられるくらいなら自殺を選んだでしょう。
脊椎が折れて死に至る前までの、回数の決まったややライトな一丈紅はあったようです。
その場合でも、下半身麻痺などの深刻な後遺障害が残るか、感染や出血で死ぬ場合もあったでしょう。
淳妃による「一丈紅」執行事件
乾隆帝の時代、後宮刑の執行権が皇太后にも与えられたことで、悲劇が起こります。
淳妃とはどんな人物だったのか
淳妃はモンゴル貴族出身で、極度に甘やかされて育ちました。
さらに皇帝の寵愛を一身に受けていたため、その性格は次第にエスカレートしていきます。
淳妃の特徴:
- 浪費と放蕩に慣れきっていた
- 気性が荒く、激しい嫉妬心の持ち主
- 些細なことで激怒することが頻繁にあった
- 侍女たちは少しのミスでも暴言や体罰を受けた
若い侍女に下された「一丈紅」
ある日、淳妃の若い侍女の一人が「きちんと仕えなかった」という理由で、淳妃の怒りを買います。
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他の側室は、侍女を叱ったり体罰を加えることはありましたが、死に至らしめることまではありませんでした。
激怒した淳妃は、その侍女に「一丈紅」の刑罰を科すことを決定しました。
宦官たちは淳妃の命令に逆らえず、哀れな侍女を縛り上げます。
侍女は皆の前で衣服を剥がされるという屈辱を受けました。
刑罰ではなくリンチ
ここで注目すべきは、怒りに任せた淳妃の行動です。
彼女は宦官の手から五尺の板を奪い取り、自ら侍女に私刑を執行しました。
淳妃にとって「一丈紅」は、慎重な判断を要する王室の正式な処刑ではありませんでした。
むしろ個人的な怒りをぶちまけ、自らの権威を示すための手段だったのです。
寵愛が生んだ傲慢
当時、淳妃は乾隆帝の最も寵愛を受けていた側室でした。
この寵愛が彼女を傲慢にさせ、結果を顧みずにこのような残酷な手段を用いるのに十分な権力を持っていると錯覚させたのです。
淳妃の権力認識:
- 「一丈紅」の刑罰を自分が享受している特権と密接に結びつけていた
- 皇帝の寵愛という後ろ盾があれば何をしても許されると考えていた
- 侍女の命よりも自分の感情と権威の方が重要だと思い込んでいた
彼女にとって「一丈紅」は、法や秩序を維持するための最高権力者に執行を許可された刑罰ではなく、
自らの地位の高さと権力の大きさを誇示するための道具になっていました。
侍女の内臓は裂け、大量に出血し、そして命を落としました。
乾隆帝の対応と淳妃の処罰
被害者の家族は粘り強く嘆願を続け、ついに乾隆帝を動かすことに成功します。
乾隆帝は淳妃を寵愛し、宮中での残虐行為をある程度容認していました。
しかし、皇帝の威厳を汚すような行為までは許すことができませんでした。
特に、淳妃が自ら板を手に取り私刑を執行したという事実は、王室の権威そのものを脅かすものでした。
乾隆帝の処置:
- この事件を公に処理し、皇后と朝廷関係者への警告とした
- 側室、皇子、大臣たちに「処罰の濫用」を戒めた
- 宮廷の秩序維持を最優先とした
事態を収拾するため、乾隆帝は宮廷で淳妃に数十回の鞭打ち刑を命じました。
そして淳妃は「淳嫔」へと降格されました。
刑罰とは、個人的な感情にまかせたリンチではないことを身をもって知りました。
淳嫔は寵愛を失い、権力も失いました。
抑止力が特権に
美しい花の名を持つ「一丈紅」という刑罰は、清朝後宮の秩序維持のための抑止でした。
「一丈紅」という名を出せば、恐ろしさにすべての妃嬪が服従します。
本来は皇太后が後宮を支配するためのものでしたが、
淳妃は、この刑罰を自分に与えられた「特権」と解釈し、
個人的な感情のままに暴力を振えるリンチの権限と同じだと思ってしまったのです。



