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絶対君主制の犠牲となった母と息子 – 雍正帝斉妃の悲劇

清朝雍正年間、一人の妃が味わった深い悲しみと絶望の物語をご紹介したい。それは齐妃の物語である。

美しい妃の栄光と没落

雍正初期、齐妃は妃として封印され、皇后と年氏に次ぐ高い地位を与えられていた。その名前の「齐」は満州語の「qi」に由来し、「美しい」という意味を持つ。まさに名前の通り、とても美しい方だったのだろう。

齐妃は一女三男を立て続けに産んだ。しかし、運命は彼女に過酷な試練を与える。苦労して授かった男の子供たちが次々と早世してしまったのである。早い時期に何度も出産したことから、容貌も他の妃よりも衰えてしまった。

  • 皇女(詳細不明)
  • 王子弘昐 – 3歳で死亡
  • 王子弘昀 – 11歳で死亡
  • 王子弘时 – 成人したが…

三皇子弘时の悲劇

唯一成人した三皇子弘时だったが、彼もまた悲劇的な運命を辿ることになる。

弘时は雍正帝の前で、康熙帝第八皇子胤禩らへの慈悲を懇願してしまった。

当時はまだ康熙帝九子奪嫡による王位奪取の余波が完全に収まっていなかったため、

雍正帝は激怒し、弘时に対して極めて厳しく無慈悲な処分を下すことを決意した。

雍正4年(1726年)正月、弘时は皇籍を剥奪された。

一族から切り離され、雍正帝の政敵である康熙帝第八皇子胤禩に息子として引き渡されたのである。

もちろん、雍正帝は康熙帝第八皇子胤禩を徹底的に痛めつけ、最後は牢獄で獄死させる。

齐妃は単に息子を失っただけでなく、

息子が政敵に引き渡される、すなわち皇位継承どころか息子の政治的な完全な死を覚悟しなければならなかった。

母の沈黙と絶望

それに対し、雍正帝に齐妃が何らかの行動をしたという記述はない。

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絶対君主の前に、ひたすら我慢し、声を潜めていたのだろう。

雍正5年(1727年)8月6日、24歳の弘时は捕らわれの身となって急死した。

公式記録は曖昧だが、現代の歴史家たちは、弘时は雍正帝に殺されたというのが一般的な見方である。

雍正帝は自分の息子を殺したのだ。

弘时が皇籍を剥奪された後、齐妃は完全に寵愛を失った。

最期と歴史の評価

齐妃は乾隆2年4月に死去した。

乾隆帝は葬儀の仕様を、彼女に与えられていた「妃」の位よりもかなり低いものとした。

乾隆帝は後に

「三阿哥弘时は若く無知で、性格が放埓であり、行動が不謹慎であったから、雍正帝は特別に厳罰を加えた」

と述べているが、この「無知で不埒」という評価は乾隆帝が書いた言葉である。

実際の弘时は、まっすぐな性格で人望もあったようだ。

それが逆に、乾隆帝に皇位を継がせたかった雍正帝にとっては邪魔に思われ、

乾隆帝のために消されたかったのだろう。

政治思想の対立

三皇子弘时は、雍正帝が目指す絶対君主制には反対で、

君主を中心とした合議制で政治を行うべきだと考えていた。

この政治思想の違いが、父子の対立をさらに深刻なものにしていたのかもしれない。


齐妃の物語は、絶対君主制の下で翻弄された一人の母親の悲劇である。

美しさゆえに寵愛を受け、母として子を産み育てながらも、

最終的には政治の犠牲となった彼女の人生は、権力の非情さを物語っている。

歴史の影に隠れがちな女性たちの声に耳を傾けることで、私たちは権力の真の姿を知ることができるのではないだろうか。

 

 

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