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愉貴妃・海貴人の史実——罪人の娘から79歳の長寿妃へ|争わない生き方の極意【如懿伝】

> ※『如懿伝』で如懿の親友として描かれる海蘭(ハイラン)——そのモデルが、乾隆帝の側室・愉貴妃(ゆきひ)です。この記事は、彼女の史実(確かなこと)と、俗説・ドラマの創作(伝えられていること)を、きちんと分けたうえで、彼女の「争わない生き方」を読み解きます。競争に疲れた現代にこそ、静かに効く一生です。

史実の愉貴妃——確かなこと

まず、記録が残る確かな史実から。

愉貴妃 珂里葉特氏(かりようとくし/海氏とも、1714〜1792)は、モンゴル鑲藍旗(じょうらんき)の出身。乾隆帝の側室で、乾隆帝が最も愛した皇子の一人・五阿哥 永琪(えいき)の生母です。彼女の後宮での歩みは、こうでした。

– 乾隆帝がまだ皇子だった頃に、その邸へ入る。当初は答応(とうおう)・常在(じょうざい)といった、下位の身分。
– 乾隆6年(1741年)、皇五子・永琪を出産し、「愉嫔(ゆひん)」に昇格。永和宮を賜る。
– 乾隆10年(1745年)、「愉妃(ゆひ)」に昇格。
– ——そして、ここからが彼女らしい。以後、約47年間、昇格も降格もなく、ずっと「妃」の位のまま。
– 乾隆57年(1792年)、79歳で死去。死後に、最高位に近い「貴妃」へと追贈されました。

清朝で、死後に「貴妃」に格上げされるのは、数少ない例です。47年間じっと動かなかった人が、最後にそっと一段上がる——ここに、彼女の人生の不思議が凝縮しています。

> 出自について(一説) 彼女の家は、先祖が呉三桂(ごさんけい)の反乱に巻き込まれ、一族が辛者库(しんじゃこ=罪人の身分)に落とされた、とも伝えられます(辛者库とは→「[辛者库制度]」、皇室に仕える隷属民=包衣の最下層。→「[包衣制度(奴隷から皇后まで)]」)。父は内務府の低い官だったとも。ただし出自の細部には諸説あり、断定はできません。確かなのは、彼女が”高い家柄の出ではなかった”ということ。だからこそ、皇子の母にまで上ったその歩みが、いっそう際立つのです。

物語のほう——俗説と、『如懿伝』の海蘭

史実の記録は、じつはここまで淡々としています。ドラマや俗説が、その隙間を、豊かに彩ってきました。

俗説のスキャンダル。 よく語られるのが、「ある夜、酒に酔った乾隆帝の弟が、間違えて彼女(当時・海常在)の部屋に入ってしまった。皇子は『何もしていない』と拒み、笑い者になった彼女を、乾隆帝が引き受けて後宮に迎えた」という話。ただしこれは、史料の裏づけのない俗説です。

『如懿伝』の海蘭。 ドラマでは、彼女は「海蘭」として、家柄の低さゆえに後宮でいじめを受け、ただ一人味方してくれた如懿と、深い友情で結ばれます。宮女時代に刺繍工房で培った知識を活かして皇太后への贈り物で認められ、寵愛を得る——といった筋立ては、ドラマの創作(もしくは大幅な脚色)です。

史実の海蘭は、如懿(継皇后・那拉氏)とこう親密だったとは記録されていません。とはいえ、この「刺繍の知識が身を助ける」という創作は、”かつて身につけたことは無駄にならない”という、いい寓話にはなっています。

愛息・永琪の栄光と、早すぎる死(史実)

彼女の人生の光であり、影でもあったのが、息子・永琪でした。ここは史実です。

永琪は、満・蒙・漢の三語に通じ、天文・地理・暦法まで修めた、文武両道の皇子。乾隆帝に深く愛され、乾隆30年(1765年)には和碩榮親王(わしつえいしんのう)に封じられます。一時は、次の皇帝候補とまで目された俊英でした(『還珠格格』の「五阿哥」のモデルとしても知られます)。

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ところが——乾隆31年(1766年)、永琪はわずか25歳で病没。諡(おくりな)は「純」。母・愉妃は、その後の長い歳月を、ほとんど喪に服すように、静かに生きたと伝わります。子を亡くした母が、なお四半世紀を生き抜いた——その静けさの重さは、想像するにあまりあります。

私の見立て——「争わない」は、弱さではなく強さ

彼女の生き方は、近ごろの中国のネット言葉で「佛系天花板(ぶっけいてんかばん)」と評されます。「佛系」は”がつがつしない、悟ったような態度”、「天花板」は”天井=最高峰”。つまり「争わない生き方の、頂点」という、現代の若者が贈った、ちょっと洒落たあだ名です(そのまま史実の称号ではありません)。

考えてみれば、彼女の47年間の”動かなさ”は、驚くべきことです。後宮は、寵愛と地位を奪い合う戦場。『[甄嬛のモデル]』の甄嬛は権力に立ち向かって自らを勝ち取り、『[純元皇后と宜修]』の宜修は策謀で這い上がろうとしました。みなが昇ろう昇ろうと足掻くなかで、愉妃は——昇りもせず、しかし、落ちもしなかった。

ここに、私は「[潜龍在淵]」で書いた、龍が天に昇らず淵にとどまる知恵と、同じものを感じます。乾卦の最後の教え「群龍、首(かしら)無きを見る、吉」——先頭に立とうとしない者こそ、穏やかに生き延びる。愉妃は、後宮という龍たちの争いのなかで、あえて”首”にならなかった龍でした。争わず、奪わず、味方(永琪、そして史実はともかく物語の如懿)を大切にし、長い目で日々を過ごす。その静けさが、彼女を最も長く、最も穏やかに、後宮に在らせたのです。争わないことは、諦めではない。奪い合いから降りる、という一つの強い選択でした。

死後に貴妃へ——その理由は?(諸説・私の見立て) 最後まで謎なのが、47年間動かなかった彼女が、なぜ死後に「貴妃」へ格上げされたのか。

①長年の穏やかな忠誠への、乾隆帝晩年の報い、

②早世した愛息・永琪への追慕が、母への礼となった、

③表向き争わないふりをして、じつは計算高く立ち回っていた——など、諸説あります。

私は、②の「永琪への追慕」が、いちばん人間くさくて、好きです。乾隆帝もまた、老いて、失った息子とその母を、静かに思ったのではないか。争わなかった人が、最後に、争わなかったからこそ得た一段。それは、誰かを蹴落として奪った位より、ずっと美しい昇り方に見えます。

おわりに——歳を重ねるほど、効いてくる生き方

愉貴妃の一生は、はなやかな勝者の物語ではありません。けれど、競争に疲れ、比較に苦しみ、人間関係にすり減る——そんな現代の私たちにこそ、静かに沁みてきます。奪い合いから一歩降り、本当に大切な人とものにだけ、心のエネルギーを注ぐ。物事の本質を見抜いたうえで、なお、穏やかさと優しさを手放さない。——それは諦めではなく、見極めたうえで選び取る、成熟した強さです。79年を穏やかに生き抜いた彼女は、「素敵に歳を重ねる」とはどういうことかを、二百年の時を越えて、そっと教えてくれているのだと思います。

◀ 低い身分から昇る:[辛者库制度] | [包衣制度(奴隷から皇后まで)]
◀ 後宮のいろいろな生き方:[沈眉荘(香りを抱いて散る)] | [祺貴人(依存と自立)] | 争う[甄嬛]・策謀の[宜修]との対照
◀ 「降りる」知恵:[潜龍在淵(龍を降りた劉協)]
◀ シリーズ一覧:清朝末期シリーズ 完全ガイドへ

 

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