果郡王允礼は実在した——史実の人物像と、ドラマが変えたもの
先に大切なことを。ドラマ『宮廷の諍い女』で描かれる果郡王と甄嬛の悲恋は、フィクションです。歌「[紅顔劫]」「[鳳凰于飛]」は、その物語の美しさを味わう記事ですが、こちらは実在の果郡王允礼を史実から見ていきます。
—
果郡王(かぐんおう)として知られる愛新覚羅允礼(あいしんかくらいんれい)は、康熙帝の第十七皇子として生まれ、政治的野心よりも文化と芸術を愛した清朝の皇子でした。
中国時代劇『宮廷の諍い女(甄嬛伝)』で広く知られるようになりましたが、実際の人物像はドラマとはかなり異なります。雍正帝には忠実で、私生活でも皇帝の妃との交際などはなく、自分の妻を大切にした人物でした。
—
生い立ち——目立たない皇子
– 康熙三十六年(1697年)生まれ
– 康熙帝の第十七皇子
– 生母:勤妃陳氏(漢人、宮廷女官出身)
生母が漢人の宮廷女官出身であったため、満洲貴族の血筋が重んじられる清朝において、允礼は決して注目される立場にはありませんでした。多くの兄弟の中でも、比較的目立たない皇子として扱われていたのです。
「九王奪嫡」のとき——まだ盤上にいなかった
康熙帝の晩年に起こった「九王奪嫡(きゅうおうだっちゃく)」——九人の皇子による皇位継承争い。この時期、允礼はまだ少年でした。
第一次廃太子の康熙四十七年(1708年)で十一歳、第二次廃太子の五十一年(1712年)で十五歳。この年齢の彼に「静観する」という主体的な選択肢はなく、単純に**まだ盤外**だったというのが実際のところでしょう。
学問と芸術の世界に沈潜したのは、戦略というより、まだ何者でもない少年が持ち場を見つけた、という順序だったと思います。琴(楽器)、棋(囲碁)、書、画——いわゆる琴棋書画の四芸に才を磨き、文人皇子としての基礎を築いていきました。
そして重要なことに、**康熙帝の崩御時点で、允礼は無爵位のままでした。**父から何の位置づけも与えられなかったのです。年少であったことに加え、生母の出自が低かったこともあったでしょう。
→ 九王奪嫡そのものについては「[九王奪嫡——清朝最大の皇位継承争い]」で詳しく扱っています。
雍正即位——疑いから信任へ
雍正帝(胤禛)が即位すると、兄弟たちの名から「胤」の字を避ける慣例により、胤礼は「允礼」と改名されます。
雍正元年、允礼は多羅果郡王に封じられ、理藩院(モンゴル・チベット・ロシアなどとの交渉を扱う役所)の管理を任されました。皇陵関係の事務も担当したと伝わります。爵位は得たものの、当初の任務は政権中枢からはやや離れたところにありました。
**ここには、一つの事情があったと考えられます。**
允礼の正室の父・**阿霊阿(あれいあ)**は、八爺党の中核人物でした。清初五大臣・額亦都の孫、康熙朝の輔政大臣・遏必隆の子という満洲きっての名門で、第八皇子・胤禩を最後まで推し続けた人物です。
そして雍正帝は、この舅を許していませんでした。阿霊阿は康熙五十五年(一説に五十六年)に病没していますが、**雍正二年、皇帝は群臣を集めて阿霊阿の生前の罪状を並べ、その墓碑を「不臣不弟暴悍貪庸阿霊阿之墓」と刻み直させています。**次男の阿爾松阿も、雍正四年に処刑されました。
つまり允礼は、即位したばかりの皇帝がもっとも憎んだ政敵の、娘婿だったのです。
雍正帝が当初、この十七弟をどう扱うべきか測りかねたとしても不思議はありません。腹心の第十三皇子・允祥が「十七弟は居心忠厚(心根が誠実である)」と強く推薦したという話が伝わっており、この推薦が転機になったとされます(※この逸話は後代の史料整理を経たもので、細部の裏づけは限定的です)。
いずれにせよ、任された仕事を通じて、雍正帝は允礼が単に真面目なだけでなく非常に有能であることを見出しました。
有能な政治家として
信任を得てからの允礼は、文人皇子のイメージからは想像しにくいほど働いています。
– 理藩院、戸部(財政)、工部などを歴任
– 雍正六年(1728年)、和碩果親王に進封
– 雍正十二年、チベットに赴きダライ・ラマ七世を護送、帰路に各地の軍務を視察
– 雍正十三年、雍正帝の遺詔により顧命大臣の一人に指名される
– 乾隆朝では総理事務王大臣として宗人府・刑部を管理
清廉で実務に強く、任された案件を確実に仕上げる——それが同時代の評価でした。乾隆帝もこの叔父を厚く遇しています。
しかし過労が祟ったのか、足の病を患い、健康を崩します。**乾隆三年(1738年)二月、四十二歳で死去。**若すぎる死でした。
私生活と家族
歴史上の果郡王は、名声や財産に淡白で、文化と芸術を重んじる人物でした。家族関係は、しかし恵まれたとは言えません。
**嫡福晋(正室):鈕祜禄氏**——前述の阿霊阿の娘、遏必隆の孫娘。満洲鑲黄旗の名門中の名門です。雍正六年に果親王嫡福晋となりますが、翌雍正七年(1729年)に死去。子はありませんでした。
なお史料により、この正室が寵愛されたか否かの記述は分かれます。「あまり寵愛されなかった」とする伝えもあれば、「琴棋書画に通じ夫婦仲は睦まじかった」とする伝えもあり、確定していません。
– ドラマで浣碧(かんぺき)のモデルとされますが、史実の彼女は侍女ではなく、れっきとした名門の令嬢です(→「[浣碧——侍女から果郡王妃へ、その実在モデルと生涯]」)
– 甄嬛のモデル・孝聖憲皇后(乾隆帝の生母)とは姉妹ではありません。両者とも鈕祜禄氏ですが、正室は額亦都から遏必隆へと続く宗家の直系、孝聖憲皇后は同族の傍系(父は四品典儀・凌柱)で、**家格はむしろ正室のほうが格段に上**でした
**側福晋(側室):孟氏**(ドラマの孟静娴のモデル)——達色の娘。出自は高くありません。雍正十年に男子、十二年に女子を産みますが、いずれも一年ほどで夭折しました。
ここで押さえておきたいのが**時系列**です。正室の鈕祜禄氏が亡くなったのが雍正七年、孟氏の子が生まれたのが雍正十年と十二年。つまり「正室を顧みず側室を寵愛した」というより、**正室の死後、跡継ぎを得るために側室を迎えた**というのが実際の順序に近いようです。
後継者問題——ドラマの“あの設定”の正体
果郡王は、跡継ぎのないまま世を去りました。そこで乾隆帝は、雍正帝の第六皇子・**弘曕(こうえん)**を果親王家の養子として跡を継がせます。乾隆帝にとっては末の弟にあたります。
**この史実こそが、ドラマ『宮廷の諍い女』の「雍正帝の第六皇子は、実は果郡王の子」というストーリーの下敷きになったと考えられます。**現実の「養子による継承」を、ドラマは「秘められた実子」という悲恋の結晶に作り変えたのです。
ちなみに同じような例は祖父の代にもあり、康熙帝は子のないまま没した従弟・荘親王博果鐸の跡を、第十六皇子・允禄に継がせています。清朝皇室では珍しくない処置でした。
ドラマ『宮廷の諍い女』との相違点
ドラマでは、果郡王は雍正帝の妃(甄嬛)と恋愛関係にあり、子までもうけたという設定です。
しかし、史実にはこのような記録は一切存在しません。実際の果郡王は政治的野心の少ない文人であり、雍正帝に忠実な臣下であり、恋愛スキャンダルとは無縁の人物でした。
そもそも雍正帝の猜疑心の強さを考えれば、皇帝の妃との私通が事実であったなら、允礼が生き延びて親王に進み、顧命大臣にまでなることはあり得ません。
—
【私の見立て】
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
果郡王という人を「権力から自由な文人皇子」として語ると、なんだか爽やかな話になります。けれど並べ直してみると、私にはむしろ**逆に見えてきました。**
彼は権力から自由だったのではなく、**権力に選ばれなかった。**
生母は漢人の女官。父からは爵位ひとつ与えられなかった。妻の実家は、新皇帝がもっとも憎んだ政敵の家。九王奪嫡の時期には年齢が足りず、盤に乗ることさえできなかった。——争いに加わらなかったのではなく、**加わる場所を持たなかった**のです。
そして皮肉なことに、その無力さこそが彼を生き延びさせました。
雍正帝が権力を組み立て直そうとしたとき、必要だったのは、満洲名門と繋がっていない人材でした。血筋が低く、後ろ盾がなく、皇帝個人にしか忠誠の向け先がない人間。第13皇子允祥(生母は包衣出身)、第16皇子允禄(生母は漢人)、そして第17皇子允礼(生母は漢人)——雍正朝を支えた弟たちの顔ぶれが揃ってこうなのは、偶然ではないと思います。
允礼の場合、舅が八爺党の中心だったことは、一度は疑いを招いた。けれど阿霊阿の墓碑が削られ、義兄が処刑されたあとの彼には、**もう実家の力も残っていなかった。**皇帝にとって、これ以上に安全な弟はいなかったでしょう。
そして、もう一つ思うことがあります。**允礼が背負ったものは、どれ一つ彼が選んだものではありませんでした。**生母が漢人の女官だったことも、父が爵位をくれなかったことも、妻の実家がよりによって政敵の家だったことも。生まれた時点か、十代の縁組で決まっている。本人の資質や努力が入り込む余地は、どこにもありません。
それでいて彼は有能でした。仕事は完璧にこなし、清廉で、任された案件を確実に仕上げた。——**有能だったからこそ、余計に走らされた**とも言えます。
比較できる例があります。**第十二皇子**は、生母の出自が低いという点では允礼とほぼ同じ条件でした。しかし彼は継承争いに加わらず、雍正朝では郡王から貝子へ、さらに鎮国公へと降格されたまま、中枢から離れて静かに耐えます。そして**七十八歳まで生きました。**允礼のほぼ倍の人生です。
後ろ盾のない皇子に許された道は、二つしかなかったのかもしれません。死ぬまで走るか、何もせずに耐えるか。允礼は前者を選び——というより、有能さゆえに選ばされたのだと思います。
現代の言葉を使ってしまえば、雍正朝はかなり過酷な職場でした。腹心の允祥は四十四歳、允礼は四十二歳で世を去っています。しかも一番働いていたのは皇帝本人で、在位十三年で力尽きました。ただ、これを笑い話にすると見落とすものがある。**允祥も允礼も、断れなかったのです。**実家に力のある皇族なら、辞退しても生きていける。彼らにはそれがなかった。皇帝の信任だけが唯一の持ち物である人間は、休むという選択肢を持てません。
「名門と繋がっていないから使いやすい」——その使いやすさとは、つまりそういうことだったのだと思います。
そして、三百年後の弔い
中国の伝統では、後継ぎを残せないことは男にとって最も重い不孝とされてきました。『孟子』の「不孝に三あり、後なきを大となす」です。皇族であれば、爵位そのものが絶える。個人の不幸ではなく、系譜の断絶という公の失敗として扱われる重さがあります。
允礼には、それが起きました。子は二人とも一年ほどで亡くなり、果親王家は他家からの養子で継がれました。恋の記録は一行もありません。四十二歳、足を病んでの死です。
その人に、三百年後の物語は何を与えたのでしょうか。
ドラマの果郡王は、**皇帝に逆らい続ける人物**です。皇帝の妃と心を通わせ、その子を成し、彼女が異民族のもとへ嫁がされると知れば私兵まで動かす。清朝の臣下として、してはならないことをほぼ全部やっています。
**史実の允礼は、一度も逆らっていません。**
理藩院を任され、戸部を任され、チベットへ赴き、遺詔で顧命大臣に指名され、断らずに全部やって、四十二歳で倒れた。
そして、この二人を分けているのは性格ではありません。**同じ一つの条件です。**
**何も持っていないこと。**
史実では、後ろ盾がないから断れなかった。物語では、失うものがないから何でもできる。**脚本は、彼の欠落を裏返しただけなのです。**
だから彼は「自由奔放な文人皇子」に見えます。けれど史実の彼が琴棋書画に沈んだのは、自由だったからではなく、**それ以外に居場所がなかったから**でした。
三百年後の物語が彼に与えたのは、恋ではないのだと思います。**逆らう力**です。生涯一度も「いいえ」と言えなかった人に、最大級の「いいえ」を持たせた。
それを弔いと呼んでいいのか、私にはわかりません。ただ、世界中の視聴者があの物語に涙を流したことは事実です。誰にも泣いてもらえずに死んだ皇子が、三百年経ってようやく、大勢に泣いてもらえた。
史実を確かめることと、物語に泣くことは、矛盾しません。両方を知ってこそ、この人はいっそう深く見えてくる——そう思っています。
—
◀ 対の記事:[甄嬛のモデル(孝聖憲皇后)の実像] |
ドラマの物語(歌):[紅顔劫]・[鳳凰于飛]
◀ 背景:[九王奪嫡——清朝最大の皇位継承争い]
◀



