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諏訪頼重に予知能力はあったのか——現人神の家の暮らしから読み解く

はじめに

漫画『逃げ上手の若君』で、北条時行をかくまう諏訪頼重。実在の頼重は、ふたつの顔を持つ人でした。生き神・大祝を出す家の当主であり、同時に鎌倉幕府の御家人、それも北条得宗家に仕える御内人です。神の家の暮らしと、武士の暮らし。その両方から、頼重の生活をたどってみます。

頼重個人の日々を記した史料は、ほとんど残っていません。ここでは、大祝家の当主が担っていた役割と年中行事から、その暮らしを組み立てています。

生き神・大祝

諏訪大社上社の大祝(おおほうり)は、神職の最高位というだけではありません。諏訪明神(タケミナカタ)がその身体に宿った、生き神とされた存在です。少年が神長官守矢氏の祭祀によってミシャグチを降ろされ、大祝となりました。(諏訪の神々については[①]で詳しく書いています。)

生き神には厳しい禁忌がありました。諏訪の地から外へ出てはならず、また血で穢れてもならなかったのです。大祝はタケミナカタそのものです。タケミナカタが国譲りで「この地から出ません」と誓った以上、大祝もその約束を守らなければならなかったのでしょう。

その大祝の一年は、季節ごとの神事とともに巡っていました。

冬——御室神事

冬の間ずっと、上社前宮には地面を掘り下げた御室(みむろ)が設けられ、大祝と、守矢氏をはじめとする神官たちが籠りました。藁で作った蛇を御室に入れることから神事が始まり、神官はミシャグチ(男蛇)とソソウ神(女蛇)を交わらせ、その力を大祝に降ろしたと伝えられます。

冬至の頃に暗い土の室に籠り、春に出てくる。冬眠して春に現れる蛇の姿と重なる、死と再生の儀礼と理解されています。冬に衰えた大地の力を取り戻すための神事でした。

具体的な内容は、守矢家に伝わる旧記など断片的な史料から、研究者が組み立てた部分が大きいことも添えておきます。

春——御頭祭

御室神事が終わると、御頭祭(おんとうさい)が行われます。神と人とが一緒に食事をする祭りです。

御頭祭の「頭」は、鹿の頭のことではありません。祭りを担当する当番=頭役(とうやく)の「頭」です。今も地元では、当番を務める人々を「おとうごさま」と呼ぶそうです。

舞台は上社前宮の十間廊(じっけんろう)。一段と高くなった奥に大祝が座り、その手前に神官たちがずらりと並びます。さらにその手前に、おとうごさまたちが並びました。

そこに鹿の頭が山と積まれました。その数は75頭といわれます。中でも立派な鹿の頭は「耳裂鹿(みみさけじか)」と呼ばれ、耳に切り込みが入っていました。神の矛にかかった鹿とされ、特別に扱われたのです。耳裂鹿は、諏訪大社上社の七不思議のひとつにも数えられています。鹿だけでなく、猪やカモシカの頭も並び、鳥や獣を高く盛り上げた「禽獣の高盛り」が積み上げられていました。

神長官守矢史料館には、江戸時代の旅人・菅江真澄のスケッチをもとに、御頭祭のお供え物が再現されています。私も写真を撮ってきました。

白鷺、山鳥、鮒、鰤(ぶり)、餅、榧(かや)の実、山芋、荒布(あらめ)。そして猪の焼き皮、鹿肉の脳みそ和え、鹿肉を煮て味付けしたもの、兎肉を煮て味付けしたもの。今でいえば煮豚のような感覚の、煮鹿、煮兎です。

神に供えたものを、人も共にいただく。殺生を戒める仏教の時代にあって、獣の肉を神とともに食べる祭りが、諏訪では堂々と続けられていたのです。

諏訪大社の近くで、私もお弁当をいただきました。猪肉のチャーシューのようなものが入っていました。神様と一緒の食事だと思って、残さずいただきました。けれど正直に言うと、猪はあまりうれしくありませんでした。

御頭祭は今も毎年4月15日に前宮で行われ、十間廊には鹿の頭(現在は剥製)が並べられます。

夏——御射山祭

夏には御射山祭(みさやまさい)が行われます。旧暦7月26日から5日間にわたる盛大な祭りで、八ヶ岳山麓で狩りが行われ、流鏑馬などの武芸が披露されました。鎌倉時代には各地の武士が大勢集まり、腕を競い、結びつきを確かめる場にもなっていました。

1186年(文治2年)、源頼朝は上社の大祝を現人神と認めたと伝えられます。なぜ頼朝は諏訪を大事にしたのでしょうか。諏訪のガイドさんはこう話していました。京都にはすでに現人神として天皇がいる。東国にも現人神が必要だった。しかもそれは、貴族に取り囲まれた存在ではなく、武士の文化や精神に合うものでなければならなかったのではないか、と。狩りと武芸の祭りを持つ諏訪の生き神は、まさに東国の武士にかなう存在だったのかもしれません。

鎌倉時代、こうした上社の祭りの頭役を務めたのは、信濃の御家人たちでした。諏訪明神のもとに結ばれた彼らは「諏訪神党」と呼ばれます。地元の方に聞くと、読みは「しんとう」ではなく「じんとう」。大祝諏訪氏の本姓「神(じん)」から来ています。昔、『神』と書いて『じん』と読む苗字の方にお会いしたことがあります。(諏訪神党については[神党の記事へのリンク]で詳しく書いています。)

〈さとえの見立て〉 頭役は、御家人ひとりが背負うのではなく、その御家人と領地の村の人々とが一緒になって、順番に務めたのではないかと思います。祭りの費用も人手も、村ぐるみでなければまかなえなかったはずです。

得宗の御内人として

諏訪氏が北条得宗家に仕える御内人(得宗被官)となったのは、北条泰時の時代、諏訪盛重(法名・蓮仏)の代とされます。尾藤景綱・平盛綱・安東光成・南条時員らと並んで、盛重は鎌倉で泰時に近侍しました。承久の乱(1221年)を機に泰時に仕えたと説明されることも多くあります。

ただし「何年に切り替わった」という明確な記録はなく、段階的に被官化したと理解されています。盛重は時頼の代にも重用され、宝治合戦(1247年)でも得宗方で活躍しました。諏訪氏は鎌倉中期には得宗家の家政機関の長を務めたこともあります。

大祝を降りて、照雲となる

しかし、戦う武士は大祝の禁忌を守ることができません。諏訪の外へ出て、血を流さなければならないからです。そこで頼重は大祝の職を子や孫に継がせ、自らは出家して照雲という法名を名乗りました。頼重の花押を見ると、「諏訪照雲」となっていました。

生き神の家の当主が、仏教の名前を名乗る。今の感覚では不思議に思えるかもしれません。けれども当時は、神と仏がひとつに溶け合っていた神仏習合の時代です。神は仏が姿を変えて現れたものと考えられ、諏訪明神にも、上社は普賢菩薩、下社は千手観音という「本地仏」が定められていました。上社には神宮寺があり、五重塔も建っていました。

肉食を許すお札「鹿食免」に記された「諏訪の勘文」も、仏の悟りを説く言葉でした。諏訪の神は、仏の言葉で殺生を赦していたのです。神の家の人が出家して法名を名乗るのは、少しもおかしなことではありませんでした。

武士が出家して法名を名乗るのも、当時はごく当たり前のことでした。漫画に出てくる佐々木道誉の「道誉」も、法名です。

〈さとえの見立て〉

冬は土の室に籠って神を身に降ろし、春には神とともに獣の肉を食べ、夏には武士たちと狩りをする。頼重の暮らしは、神の家の当主として祭りを回すことと、鎌倉の武士として得宗家に仕えることが、切り離せないものだったのだと思います。

武人として優れたタケミナカタの神であり、さらに肉食と殺生を認めた諏訪は、まさしく鎌倉幕府の神でした。


諏訪頼重の「予知」——頼重には何が見えていたのか

漫画の頼重は、なぜ未来が見えるのか

漫画『逃げ上手の若君』では、頼重は未来が見える人物として描かれています。諏訪のガイドさんによれば、この時代のリーダーは、稲作のために天候を読み、外敵や社会の情勢も読まなければなりませんでした。そうした姿が「未来が見える」という設定になったのではないか、という話でした。

御神渡りの筋の入り方から、一年の作柄や世の中を占う神事が今も続いていることを思うと、うなずける見方です。

頼重のそばにいる雫

ガイドさんは、漫画に登場する雫についても、ミシャグチ、あるいは守矢氏がモデルではないかと話していました。

〈さとえの見立て〉 縄文時代の信仰は、大きな石や木など、そこに住む精霊をあがめるアニミズムだったと考えられています。ミシャグチは石や木に降りる神だといわれます。だから、そこに宿る精霊たちの声が聞こえ、話をすることができる。漫画の雫が精霊や神獣たちと話せるのは、そのためではないでしょうか。大祝を生き神にしたのが守矢氏とミシャグチの祭祀だったことを思うと、頼重のそばにいる不思議な少女にその役割が重ねられているという見方は、とても腑に落ちます。

〈さとえの見立て〉頼重に見えていた未来

ガイドさんの「東国にも現人神が必要だった」という話を聞いて、私はこう考えました。鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統に分かれた皇統の擁立にまで関わっています。京都の天皇の力を弱めようとしたのか、両統に頼られて渋々裁定に入ったのか、見方は分かれます。いずれにしても幕府にとって、京都の天皇に代わる東国の生き神、諏訪は大事な存在だったのだと思います。

けれども、天皇を操っているつもりでいたことが、逆に怪物を生み出してしまいました。後醍醐天皇は、両統が交代で即位する取り決めのもと、一代限りの「中継ぎ」とされていました。自分の子を天皇にしたいという願いは、幕府を倒すことでしかかなえられなかったのです。

鎌倉幕府が滅び、南北朝の戦乱がだらだらと続き、やがて戦国時代へ突入していく。その長い混乱の根には、天皇の系統の分裂があったのだと私は思います。二つの朝廷があれば、武士は都合に応じてどちらにもつくことができます。南北朝の時代に「裏切り上等」という価値観が醸成されたからこそ、下剋上の戦国時代へとつながっていったのではないでしょうか。その空気を象徴するのが、派手な装いで権威を笑い飛ばした「バサラ」です。上皇の牛車に矢を射かけたバサラ大名まで現れました。そう考えると、鎌倉幕府はやはり、渋々裁定に入っていたのかもしれません。

ただ、東国に住んでいるせいか、佐々木道誉のようなバサラの価値観と、鎌倉幕府の後を継いで東国を治めた鎌倉府や関東管領の価値観とは、相容れないものだったような気がします。漫画『逃げ上手の若君』に描かれているとおりです。

鎌倉幕府が滅びれば、諏訪信仰も、諏訪そのものも衰えていく。頼重には、その未来が見えていたのだと思います。漫画でいう「予知」です。

だからこそ頼重は、自分も子どもも大祝を降りて、戦場に出たのでしょう。

漫画の頼重は、大祝を継いだ孫に神力がないことを心配していました。その姿も、今なら違って見えます。いつも光り輝いて笑っている頼重を、私は笑いながら読んでいました。少し申し訳なかったと思います。

中先代の乱

1335年(建武2年)、頼重は北条高時の遺児・時行を擁して挙兵しました。中先代の乱です。時行の軍は足利直義を破り、ついに鎌倉を奪い返します。

報国寺で頼重が見たもの

漫画では、鎌倉を押さえた頼重が報国寺を訪れる場面があります。報国寺は、尊氏の祖父・足利家時ゆかりの寺とされています。

足利家は、八幡太郎義家の孫・義康から始まる家です。その足利家には、こんな言い伝えがありました。源義家が「七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文を残した。その七代目にあたる家時は、天下を取ることができませんでした。そこで家時は自らの命を捧げ、「三代のうちに天下を取らせてほしい」と祈って自害した。その三代目が尊氏です。

足利家の系図

源義家(八幡太郎)
↓
義国
↓
義康(足利氏の祖)
↓
義兼
↓
義氏
↓
泰氏
↓
頼氏
↓
家時(義家から七代目)
↓
貞氏
↓
尊氏(家時から数えて三代目)

この話は、室町時代に今川了俊が書いた『難太平記』に、了俊自身がその置文を見たと記されているものです。置文が本当にあったのかどうかは、研究者の間でも見方が分かれます。

〈さとえの見立て〉 命と引き換えに子孫の天下を願った祖父。その願いを背負った尊氏。頼重はそこに、尊氏の禍々しいほどの力を感じ取ったのだと思います。この相手には勝てない。それが、頼重の最後の「予知」だったのではないでしょうか。

最後の策——顔の皮を剥いだ頼重

鎌倉を押さえていたのは、わずか二十日あまりでした。京から下ってきた尊氏の軍に敗れ、頼重は子の時継らとともに、鎌倉の勝長寿院(大御堂)で自害しました。

『太平記』によれば、自害した者たちは皆、顔の皮が剥がれていて、誰の遺体なのか見分けがつかなかったといいます。その中に時行がいるのかどうかも、わからなかったのです。時行は生き延びました。

〈さとえの見立て〉 自分で自分の顔の皮を剥ぐことはできません。頼重たちが自害したあと、残った諏訪の者たちが、命令に従って皮を剥いだのだと思います。

御頭祭では、猪の焼き皮が神に供えられる珍味でした。狩りとともに生きてきた諏訪の人々にとって、獣の皮を剥ぐことは身近な技だったはずです。頼重は、負けがわかった時点で、最後の策を練ったのでしょう。顔の皮を剥いで、誰が死んだのかわからなくする。そうすれば、時行が死んだと思わせることも、逃げる時間を稼ぐこともできる。頼重の「予知」は、最後の最後まで、時行を生かすことに向けられていたのではないでしょうか。

予知は当たった——その後の諏訪

一方、同じ一族の諏訪円忠は足利尊氏に仕え、室町幕府のもとで『諏訪大明神画詞』を編み、国を守った龍神の物語を書き残しています。

その後の諏訪信仰の歩みは、平坦ではありませんでした。建武の新政が始まると、北条氏と深く結びついていた諏訪信仰の権威は失墜します。

戦国時代、諏訪を支配した武田信玄は、諏訪氏の娘・諏訪御料人を側室に迎え、1565年(永禄8年)ごろには『諏訪上下宮祭祀再興次第』を記して、途絶えていた祭りを立て直そうとしました。しかし1582年に武田氏は滅び、織田信長の甲州攻めの中で上社本宮も焼かれます。安土桃山時代になると、大祝は前宮から出されてしまいました。

明治になると、とどめが刺されます。1868年の神仏分離令で上社神宮寺の五重塔が取り壊され、1871年(明治4年)、大祝の職そのものが廃止されました。少年に神を降ろして生き神とする諏訪の祭祀は、ここで終わりを迎えました。

頼重が鎌倉の復興にすべてを賭けた理由が、わかる気がします。鎌倉とともにあることが、諏訪の神とその祭祀を守ることだったのでしょう。

参考

  • 『諏訪大明神画詞』(諏訪円忠、1356年)
  • 『太平記』
  • 『難太平記』(今川了俊)
  • 「諏訪御符礼之古書」
  • 鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)
  • 神長官守矢史料館の展示・解説
  • 鳥取県立博物館 研究報告(得宗被官家について)
  • 和楽web『逃げ上手の若君』諏訪頼重とその一族
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