後宮ものの主人公にならなかった女性——八福晋・郭絡羅氏
『宮廷の諍い女』も『瓔珞』も、面白いドラマです。主人公は賢く、強く、鮮やかに宮廷を勝ち抜いていく。
けれど観ているうちに、少し息苦しくなることがあります。
**勝利条件が、いつも同じだからです。**寵愛を得る。男子を産む。位が上がる。主人公がどれだけ有能に描かれても、彼女の価値を決めるのは最終的に皇帝の視線であり、愛を失えば、能力があっても終わってしまう。
そのゲームに、参加しなかった女性がいます。
第八皇子・胤禩の嫡福晋、郭絡羅氏(かくらくらし)。『歩歩驚心』では**明慧(めいけい)**の名で描かれた女性です。
「名門の令嬢」ではあったが、恵まれてはいなかった
彼女はしばしば「安親王家の令嬢」として紹介されます。半分は正しく、半分は正しくありません。
外祖父は安親王岳楽(がくらく)。ヌルハチの孫にあたり、三藩の乱で軍功を挙げ、宗人府を長く預かった宗室の重鎮です。順治帝が臨終の際、幼い息子ではなく従兄の岳楽に位を譲ることを考えたという話が伝わるほどの人物でした。
しかし、彼女自身の境遇は複雑です。
- 父——和碩額駙・明尚。康熙二十年、賭博での詐取(二千余両)により斬監候の判決を受けています
- 母——岳楽の第七女。庶出の格格で、康熙二十三年に二十六歳で死去
- 本人——三歳前後で両親を失い、安親王府に引き取られる
- 九歳のとき、その岳楽も死去
祖父の死後、彼女を育てたのは岳楽の嫡福晋・赫舎里氏でした。この女性は索額図の妹であり、康熙帝の最初の皇后・孝誠仁皇后の叔母にあたります。
血の繋がりはありません。
つまり彼女は、権勢ある家に身を寄せた孤児でした。父は罪人、母は庶出で早世、育ての祖母は他人。家の名は借りられても、その家は彼女自身のものではなかったのです。
「実家が太い」という言い方は、彼女には半分しか当てはまりません。ここは押さえておきたいところです。
婚姻——低い皇子と、高い家の孤児
康熙三十一年に婚約、康熙三十七年、十八歳の胤禩と正式に結婚します。
胤禩の生母・良妃衛氏は辛者庫出身で、九人の皇子の中でも血筋がいちばん低い。その彼に、宗室の重鎮の外孫女が嫁いだ。この縁組が、彼の政治的な立場を押し上げました。
そして彼女は、王府の実権を握ります。雍正朝の供述記録にも、胤禩の屋敷のことは福晋がすべて取り仕切っていたとあります。政治の相談にも加わっていたようです。
康熙帝からの名指し
康熙四十七年十月四日、康熙帝は胤禩についてこう述べています。
「胤禩は平素から妻に制せられている。その嫉妬と悪行を放任しているので、いまだ子を得ていない」
皇帝が皇子の妻を、群臣の前で名指しで非難する。清朝でも異例のことです。
※なお、この時点で胤禩には側室との間に息子・弘旺が生まれています。批判の内容が事実そのままだったかは、慎重に見る必要があります。
そして重要なのは、彼女がこれをやめなかったことです。
皇帝に叱責されたあと、態度を改めた記録がありません。夫に側室を増やさせるでもなく、子を産んで名誉を回復するでもなく、そのまま王府の当主として振る舞い続けました。
「七出」——妻を離縁できる七つの条件
ここで、当時の法がどうなっていたかを見ておく必要があります。
清朝を含む伝統中国の婚姻制度には、**「七出(しちしゅつ)」**という規定がありました。妻がこの七つのいずれかに該当すれば、夫は離縁できるというものです。
- 不順父母——舅姑に従わない
- 無子——男子を産まない
- 淫——不貞
- 妒——嫉妬する
- 悪疾——重い病を持つ
- 多言——口数が多い、他人の噂をする
- 窃盗——盗みを働く
お気づきでしょうか。
康熙帝が名指しで挙げた二つ——「嫉妬」と「子がない」は、どちらも七出の項目です。
つまりあの発言は、単なる私的な苛立ちの表明ではありませんでした。皇帝は、彼女を離縁できる法的根拠を、群臣の前で公式に読み上げていたのです。
しかも七出の条項を並べると、その性格がよく見えてきます。感情に関する項目は一つもありません。舅姑への従順、跡継ぎ、家の秩序——すべて家という単位の利益を守るための条件です。妻という存在が、家の機能として定義されている。
「嫉妬」が離縁事由になるのは、そのためです。夫が側室を持つことは家の存続に必要な行為であり、それを妨げる感情は家に対する妨害とみなされました。
「三不去」——それでも離縁できない三つの場合
ただし、妻を守る規定もありました。**「三不去(さんふきょ)」**といいます。以下に該当する場合、七出の事由があっても離縁は許されません。
- 有所娶無所帰——実家が絶えており、離縁されたら行き場がない
- 与更三年喪——舅姑の三年の喪に服した
- 前貧賤後富貴——嫁いだときは貧しく、いまは富貴になった
ここで、郭絡羅氏の境遇を思い出してください。父は罪人、母は早世、養育者の祖父も死去。一つ目の条件に、彼女は限りなく近い立場にありました。
律は「離縁できる」であって「離縁せよ」ではない
そして、ここがいちばん大事な点です。
『大清律例』は、七出についてこう述べています。「七出とは、礼として出すことができるというものであって、必ず出さねばならないという意味ではない」。
離縁は、義務ではなく権利でした。しかも七出による離縁に、役所の許可は要りません。休書を一通したため、親族か近隣の者に立ち会わせれば、それで成立します。
つまり——
胤禩は、二十八年間にわたって、いつでも合法的に彼女を離縁できました。
康熙四十七年に皇帝から公然と根拠を示されたあとも、です。皇帝の不興を買っている妻を切り捨てれば、政治的にも有利だったはずです。周囲は当然そう勧めたでしょう。
それでも彼はしなかった。
一度の決断ではありません。日々、しなかったのです。
そして最終的に彼女を離縁させるには、**皇帝の勅命が必要でした。**夫の意思では、最後まで動かなかったということです。
雍正帝の評価——「残刻」
即位した雍正帝は、彼女をこう評しています。
「允禩の妻は残刻であり、允禩は平素からこれを大いに畏れていた」
雍正四年、胤禩の粛清が始まります。そして雍正帝は、彼女を単独で名指しし、福晋の身分を剥奪して実家へ戻すよう命じました。
八爺党・九爺党の粛清において、雍正帝は宗室の妻子まで追い詰めることは多くありませんでした。彼女は例外です。
最期——ここは、ドラマと違います
ここは正確に書いておきたいところです。
『歩歩驚心』では、八福晋・明慧は休書を突きつけられたあと、**自ら火の中へ身を投じます。**抗議としての焼身自殺。多くの視聴者が涙した場面です。
史実は、そうではありません。
雍正帝は彼女を離縁させたのち、自尽を命じ、さらに「散骨して罪に伏せしめよ」——遺骨を砕いて撒くことを命じました。
死因については記録が分かれ、自ら首を吊ったとする説、焼死を命じられたとする説などがあります。確定していません。ただしいずれの説を取っても、それは彼女が選んだ死ではなく、命じられた死でした。
雍正四年、胤禩もまた同じ年の九月に幽閉のうちに死去します。四十五歳でした。
「散骨」とは、何を意味したのか
雍正帝が命じた「散骨して罪に伏せしめよ」という処分について、少し説明が要ります。
遺体に対する刑罰——戮屍(りくし)や挫骨揚灰——は、清朝の刑罰体系のなかで、**「謀大逆」に用いられる register に属します。**謀大逆とは十悪のひとつ、王朝そのものへの反逆であり、赦免の対象外とされた最重罪です。文字獄の判例を見ると、凌遅や斬首と並んで戮屍が科されています。
つまりこれは、通常の罪に対する刑ではありません。
そして、なぜそれが最も重い罰だったのか。
伝統中国において、人は死後、墓に葬られ、子孫の祭祀を受けることで存在し続けます。命日ごとに名を呼ばれ、供物を受け、系譜の中に位置を保つ。それが死者の生きる形でした。
骨を砕いて撒くというのは、その全部を断つ処分です。墓がない。祭る場所がない。名を呼ぶ子孫もいない。この世からだけでなく、あの世からも除籍するということです。
思い出してください。同じ年、雍正帝は胤禩を宗籍から除き、名前を奪って「阿其那」と改めさせています。
夫は生きたまま系譜から消され、妻は死んだあとに存在を消された。
夫婦そろって、記録から抹消されたのです。
そしてもう一つ。八爺党・九爺党の粛清において、雍正帝は宗室の妻子までは追い詰めていません。彼女だけが例外であることの意味は、ここまで見てくるとはっきりします。
彼女は、政治的には無力でした。官職も兵も持たず、票も動かせない。にもかかわらず、皇帝は彼女を単独で名指しし、謀大逆に用いる register の処分を科した。
雍正帝が排除しようとしたのは、彼女の権力ではありません。彼女の姿勢のほうだったのだと思います。
【さとえの見立て】
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
まず、ドラマが変えたものについて。
史実の彼女は、遺骨を撒かれました。死んだあとの身体まで罰の対象にされたわけです。清朝において挫骨揚灰は、極めて重い処罰でした。
ドラマは、その火を彼女の手に返しました。焼かれたのではなく、自ら焼いた。罰として与えられたものを、意志の表現に作り変えたのです。
これは、果郡王允礼の記事で書いたことと同じ構造だと思います。史実が奪ったものを、三百年後の物語が別の形で返している。(→「[果郡王允礼の実像]」)
そのうえで、彼女という人について。
彼女は寵愛のゲームに参加しませんでした。
甄嬛も瓔珞も、あのゲームの上手なプレイヤーです。愛を得て昇り、子を産んで位を固める。制度の中でどう生き延びるかの物語であり、だから面白い。
けれど、評価者が常に外部にいます。男に選ばれることが、勝利条件になっている。
郭絡羅氏には、それがありません。寵愛を求めていない。子もない。位も上がらない。皇帝に叱責されても曲げず、夫が爵位も宗籍も名前も失っても、離れなかった。
彼女の行動を採点している人が、どこにもいないのです。
そしてもう一つ。私は当初、彼女を「実家が太かったから強気でいられた人」と考えていました。それは違ったようです。
三歳で孤児になり、罪人の娘として権勢ある家に身を寄せ、九歳で庇護者を失い、血の繋がらない祖母に育てられた。彼女の立場は、決して安泰ではありません。むしろ、いつでも切り捨てられ得る側でした。
それでも、曲げなかった。強さの出どころは、家の力ではなかったのだと思います。
そして、もう一つ気づいたことがあります。
この夫婦は、互いに相手を選び続けていました。
彼女は、寵愛のゲームに参加しないという姿勢を、二十八年間変えませんでした。皇帝に叱責されても、夫が失脚しても。
そして胤禩は、その二十八年間、**いつでも合法的に彼女を離縁できたのに、しなかった。**七出の根拠は皇帝自身が示してくれていました。切り捨てれば政治的に得だったはずです。
八爺は、与えることでしか自分を表現できない人でした。そしてその与える性質が、彼を潰していった。けれど一つだけ、与え続けて損をしなかったものがあります。
彼女です。
離縁を成立させるのに勅命が必要だったという事実が、それを証明していると思います。夫の意思では、最後まで動かなかった。
ステレオタイプの「女の勝者」には、彼女はなれませんでした。
寵愛も得ていない。男子も産んでいない。位も上がらなかった。後宮ものの主人公になる資格を、彼女は一つも満たしていません。
けれど、あのゲームの外側で最後まで自分の姿勢を崩さなかった人を、私は勝者だと思います。
そして、いまも中華圏で八爺が推され続けている理由も、ここにあるのではないでしょうか。
彼は皇位を取れませんでした。政治的な判断は誤り続けたと言っていい。けれど、離縁しなかった。
有利だったはずなのに、しなかった。法も、皇帝も、周囲も、切り捨てることを許していたのに、二十八年間しなかった。
権力闘争の勝敗は三百年前に決着しています。けれど、この一点だけは、いまも採点され続けている。
そして彼は、そこでは負けていません。
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