家を残す、と言います。では、何を残せば家は残るのでしょうか。
信濃の三つの家を追っていくと、答えのようなものが見えてきました。そしてその答えは、思っていたより厳しいものでした。
まず、何が残らないのか
土地は奪われる
いちばん簡単に奪われるのが、土地です。
建武2年(1335年)8月1日、望月重信が鎌倉に在陣している留守を突かれ、本拠の望月城は信濃守護・小笠原貞宗方に落とされました。
そしてその小笠原も、二百年後に同じ目に遭います。天文19年(1550年)、小笠原長時は武田晴信に敗れて深志城を追われ、信濃を失って流浪しました。
奪った側も、いずれ奪われます。土地は、家を残す手立てにはなりません。
紙は、燃える前から忘れられている
では記録はどうか。
望月城が落ちた日付が七百年後の私たちにわかるのは、市河氏が着到状を残したからです。市河文書がなければ、あの日は歴史から消えていました。記録を残すというのは、たしかに有効な方法です。
けれども『逃げ上手の若君』の作中に、紙は燃やすためにある、という趣旨の台詞が出てきます。私はこれを、記録に残せば歴史は残るという考え方への、痛烈な皮肉として読みました。
証拠を焼き捨てればよい、という実務の話ではありません。紙とは燃えるものだ、燃えるという性質こそが紙の本質なのだ、と言っているのだと思います。だとすれば、紙に託した瞬間に、いつか失われることは決まっている。
建武政権の時代、綸旨は権利の根拠そのものでした。しかし紙である以上、焼けば消えます。しかも当時は偽綸旨が横行し、二条河原落書にもそのことが書き留められています。天皇の文書でさえ、その程度には脆いものでした。
そして、これは私たちに向けられた皮肉でもあります。望月城が落ちた日付を私たちが知っているのは、市河氏の文書が燃えなかったからです。燃えた家のことは、何も知りません。知らないということすら、知りようがないのです。
さらに、紙にはもっと厄介な性質があります。
紙に残した瞬間、人は忘れてしまう。
書いたから大丈夫だと思って、覚えるのをやめる。体に入れなくなる。紙は残すための手段であると同時に、忘れるための手段でもあるのです。だから燃えたとき、もう誰の中にも残っていません。
口伝は、紙より強い
では、書かずに口で伝えればどうか。日本では最も大切なことは文字にしない、という考え方があります。秘事は口伝、というやつです。
これは紙より弱い方法ではありません。むしろ強い方法です。
覚えなければ伝えられないので、必ず頭に入ります。口に出して繰り返すものだから、口の筋肉にも残ります。祝詞も経も、意味を考える前に口が動く。その意味で口伝は、すでに半分は「体に入れる」方法なのです。
諏訪に、その極限の例があります。守矢家です。
守矢氏は諏訪大社上社の筆頭神官である神長官を代々つとめ、ミシャグジ信仰の祭祀を秘伝として、一子相伝の口伝で伝えてきました。当代で七十八代を数えます。
ところが明治4年(1871年)、太政官布告によって神職の世襲制が廃止され、神長官の職そのものがなくなりました。そして第78代当主の守矢早苗さんには、その伝承はなされていないとされています。守矢家はすでに祭祀を行っておらず、口伝で伝わってきた祭祀の内容は失われました。
ここで注意したいのは、失われたものの中身です。守矢家の文書は膨大に残っています。茅野市がそれを引き継ぎ、神長官守矢史料館として保存・公開しています。記録は、残っているのです。
残らなかったのは、書かなかったものだけでした。
✦ さとえの見立て
一子相伝は、欠陥ではありません。設計です。
渡す先を複数にすれば、必ず解釈が分かれます。間違ったやり方も生まれます。そして分かれた枝は、どれも自分が本物だと主張する。誰にも正解を確かめる方法がなくなります。だから一本にするのです。
神事の場合、これは特に切実だったはずです。技芸なら多少ずれても弓は射られますが、神に向かう作法は、正しさそのものが中身です。間違った形で続くくらいなら、伝えないほうがいい。
つまり守矢家は、正確さを取って、続く確率のほうを捨てた家です。そして七十八代のあいだ、その賭けに勝ち続けました。
望月は、馬の家だった
ここから、信濃の三つの家を見ていきます。
望月牧は『延喜式』に載る信濃十六牧のうち最大の牧でした。信濃全体の貢馬八十疋のうち、望月牧だけで二十疋を占めています。牧監も、望月牧だけを担当する者が、他の諸牧を統括する者とは別に置かれていました。一つの牧に専任がつく、特別扱いです。
貞観7年(865年)、信濃の貢馬の日が八月二十九日から十五日に改められます。満月の日です。信濃全体の貢馬日であった「望月の日」が、そのままこの牧の名になったと考えられています。
この日に都へ曳かれた馬が「望月の駒」でした。紀貫之が逢坂の関の情景として歌に詠み、都の風物詩になります。望月氏の九曜紋は満月を意味しますから、家の名も家紋も、月と馬からできていることになります。
そして建武元年(1334年)の『建武年中行事』では、他の諸牧からの駒牽が絶えるなか、望月牧だけが続いています。中先代の乱の、前年です。
当主が、外から来るようになる
その望月氏が、戦国期にどうなっていたか。
永禄7年(1564年)、望月氏の養子になっていた望月信頼が死去します。翌永禄8年(1565年)、その実弟が望月信雅の娘を妻として家督を継ぎました。望月信永です。十四歳だったといいます。
信頼も信永も、望月の血ではありません。武田信玄の弟・武田信繁の子です。十六世紀の望月氏は、武田一門から二代続けて当主を迎え入れていたことになります。
そして天正3年(1575年)5月21日、信永は長篠の戦いで討ち死にしました。享年24。『信長公記』が記す武田方の戦死者には、内藤、山県、馬場、真田信綱・昌輝らと並んで、望月信永の名が挙がっています。
そのあと望月氏の名代となったのは、信永の実兄にあたる武田信豊でした。
名は残っています。当主もいました。けれども中身は武田です。
なお、信永の子とされる望月直義は真田信繁に仕えて大坂の陣を戦い、敗北後は駿河の山奥に逃れて、その子孫は静岡や山梨に広く分布しているといわれます。伝承の域を出ませんが、血のほうは細く続いたようです。
起請文に、名はあった
生島足島神社で起請文を見たとき、私はそこに滋野の名を見つけました。
望月遠江守信雅。海野三河守幸貞。海野伊勢守幸忠。海野左馬亮幸光。
中先代の乱で諏訪頼重方として挙兵した三家のうち、望月と海野が、二百三十年後に同じ神前で誓紙を出している。禰津の起請文もあります。滋野三家が揃って、武田の信濃先方衆としてそこにいました。
続いていたんだ、と思いました。城は潰され、主家は何度も変わったけれど、二百五十年経ってもこの人たちは残っている。現地に立って、自分の目でその名を確かめれば、そう読みます。
けれども、名の残り方は家によってまったく違っていました。
望月は、名が一本だった
あの起請文は永禄10年(1567年)のものです。望月氏の家督は、その二年前の永禄8年に信永へ移っています。信雅は望月の人ですが、彼の娘を妻に迎えて家を継いだのは、武田信繁の子でした。
名は正しかったのです。偽りではありません。ただ、継承のほうが入れ替わっていた。
海野は、名が三本に分かれていた
一方、海野は三名が別々に名を連ねています。永禄10年の時点で、海野を名乗る家が複数あったということです。
本来の海野氏は、天文10年(1541年)の海野平の戦いで武田・村上・諏訪の連合軍に敗れ、海野棟綱が上野へ逃れて没落したとされます。その二十六年後に、海野を名乗る三名が武田に誓紙を出している。
庶流が複数残っていたのか、武田が旧海野領の国衆に海野の名を継がせたのか、あるいはその両方か。この三名がどういう関係で、本来の海野氏とどうつながるのかは、私にはまだ確かめられていません。
✦ さとえの見立て
同じ神前に、望月が一つ、海野が三つ。
望月は名が一本で、中身が入れ替わっていました。海野は名が三本に分かれて残っていました。同じ滋野三家でも、残り方がこれだけ違います。
どちらが正しいという話ではないと思います。一本に絞れば正確に渡りますが、切れれば終わる。複数に分ければ切れにくいけれど、必ず分かれて、どれが本流かわからなくなる。
そして私は現地であの名を見て、続いたのだと思いました。読み間違えたのは、紙のせいではありません。名があれば家も続いていると考えた、私のほうです。
紙は残ります。残った紙は、名前までは正確に伝えてくれる。けれども、その名を担っている中身までは教えてくれません。
家が続くというのは、名が残ることではありませんでした。
✦ さとえの見立て
馬の家が馬の芸を伝える家にならなかった理由を、私は長篠の戦死に求めていました。当主が二十四で討たれたのだから、そこで途絶えたのだろう、と。
けれども、そうではないと思い直しました。長篠より前に、望月はすでに自前で当主を立てられない家になっていたのです。武田から養子を迎え、武田と一緒に滅びました。
芸を渡すには、渡す体と、受け取る体の両方がいります。望月の場合、伝えるべき体のほうが先に途切れていました。
順位は入れ替わる
ここで小笠原に目を向けます。
鎌倉初期、弓馬四天王と呼ばれた並びは、海野幸氏、望月重隆、武田信光、そして末席に小笠原長清でした。滋野の二家が上位を占め、小笠原は最後です。この時点では、小笠原のほうが下でした。
小笠原氏が武家故実の指導的立場に立つのは室町時代中期以降であり、しかもその主体は小笠原宗家ではなく京都小笠原氏であった、というのが二木謙一の研究以来の定説とされています。小笠原家の伝承では、第七世の貞宗が弓馬の二法に礼法を加えて三法とし、これを糾法と名づけたとされますが、そこは家の側の伝えとして受け取るのが安全でしょう。
順位は、あとから入れ替わりました。
国を失っても、芸は手放さなかった
信濃を追われた小笠原長時は、京都小笠原家を頼り、上杉を頼り、会津まで流れます。
そして永禄5年(1562年)、長時は弓馬礼法の伝統を絶やさないために、一族筋にあたる赤沢経直(小笠原貞経)へ、糾法の的伝と系図と記録を携えて、弓馬術礼法の宗家の道統を託しました。このとき、総領家と弓馬礼法の家が分離します。
国を失った年に家法を手放さず、十二年後に別の系統へ預けている。土地は奪われても、芸は渡さなかったということです。以後この系統が一子相伝で伝え、いまに続いています。
禰津の鷹
禰津氏は、南北朝では諏訪・北条方について負け、戦国では武田に従って主家が滅亡した家です。負け続けました。それでも残りました。
残した手立ては、放鷹術でした。徳川の鷹狩と結びついて重用され、旗本として江戸期を通じます。禰津氏の家紋に「丸に違い鷹の羽」が伝わるのも、この家の性格をよく示しています。
そして、この家には見せ場がありません。
同じ信濃で江戸を越えた家に、真田があります。真田は派手です。犬伏で親子が分かれ、大坂で散り、その全部が物語になりました。生き残り方までが逸話として語られています。
禰津は、何も語られていません。南北朝で負け、武田に従って主家が滅び、それでも徳川のもとで鷹匠として旗本になっている。負け続けたまま、しれっと生き残っている。
✦ さとえの見立て
目立たないのは、たぶん方法の性質です。
芸を渡すという作業に、見せ場はありません。三歳から始めて、何十年もかけて、次の体に入れる。それだけです。決断の場面も、語るに足る逸話も生まれません。
真田が残ったのは、政治的な選択の結果でした。だから語れる。禰津が残ったのは、鷹という一点を手放さなかったからです。そこには語るべき出来事がありません。
誰も見ていないところで、毎代続けていた。芸で残るというのは、たぶんそういうことです。
それにしても、主家が負ければ普通は一蓮托生です。所領も忠誠も、その主君とセットでしか価値がないからです。
けれども鷹の扱いは、武田にも徳川にも同じように使えます。芸は奪われないだけでなく、主君を乗り換えられる。時代がどれだけ移り変わっても残るのは、そのためでしょう。
禰津は、鷹を変えないために、仕える相手のほうを変えました。
✦ さとえの見立て
三つの家を並べると、明暗がはっきりします。
望月は、都にまで名の通った馬の家でした。けれども中先代の乱で本家が打撃を受け、戦国期には武田から当主を迎えるようになり、その当主が長篠で討たれました。馬の家は、馬の芸を伝える家にはなりませんでした。
小笠原は、鎌倉初期には末席でした。その家が室町を通じて故実を整え、国を失ってなお道統を託して、芸を残しました。
禰津は、負け続けて、鷹で残りました。
同じ信濃で、同じように負けて、手放した家と手放さなかった家がある。勝ったか負けたかではなく、そこが分かれ目でした。
三歳から始める
小笠原では、弓馬礼法の稽古を三歳から始めるといいます。
なぜそこまで早いのか。
土地は所有物です。だから移せます。紙は物です。だから焼けます。口伝は情報ですが、体に入るぶん強い。
そして体に入りきった技は、所有物でも物でも情報でもありません。その人そのものになっている。だから切り離せず、奪えない。奪うには、習うしかないのです。
これが「芸は奪われない」ということです。
ただし、芸はストックできない
けれども、ここに厳しい留保があります。
土地や金はストックできます。貯めて、次の代に渡せる。受け取った側は、その瞬間から持っています。
ところが技は、そうはいきません。前の代がどれだけ極めても、次の体にはゼロから入れ直すしかない。八百年の蓄積があっても、いま三歳の子に入れる作業は、八百年前と同じ手間がかかります。
芸は資産ではなく、毎代ゼロから作り直す負担のほうです。
しかも、その負担が収入を生むとは限りません。小笠原では、教えることで生計を立てることを禁じていると聞きます。生業は別に持ったうえで、家の負担として続けている。
だから「芸は奪われない」といっても、子孫が安泰になるわけではありません。むしろ逆です。毎代、誰かがその負担を引き受けなければ、そこで終わります。
その点で、禰津は例外的だったのかもしれません。鷹匠は幕府に雇われる職能でしたから、芸がそのまま禄になりました。芸と生計が一致した、稀な例です。
✦ さとえの見立て
だから日本では、何代目という言い方が尊重されるのだと思います。
その数字は、財産を相続した回数ではありません。誰かがゼロから入れ直した回数です。先代が名人でも、次の体には何も残っていない。八百年の蓄積は、始める三歳児にとっては一日分の得にもなりません。むしろ、腕がつく前から期待だけが先にある。
資産を継いだ人を何代目とは、あまり言いません。何を継いだかで、言葉の重みが変わるのです。
運は天にあり、手柄は足にあり
上杉謙信の言葉として、こう伝えられています。運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり。いつも敵を掌中に入れて合戦すべし。
運は天が決めるので自分にはどうにもならない。けれども身を守るのは、いかに備えたかで決まる。そしてじっとしていないで動けば、活路が開ける。まだ長尾景虎を名乗っていた二十代後半のころ、戦場で自軍を鼓舞するために発したと伝えられます。
この三つは、家の話としても読めます。
運は天にあり。 家が続くかどうかには、運の部分が確実にあります。市河氏の文書が燃えなかったのは運です。望月が長篠で当主を失ったのも、守矢家の代で制度が根こそぎ変わったのも、その人にはどうにもならないことでした。
鎧は胸にあり。 この記事でいえば、鎧とは芸のことです。毎代の稽古をどれだけ積むかは、天ではなく家が決めることでした。三歳から始めるかどうかは、自分たちで決められる。
手柄は足にあり。 そして備えているだけでは足りません。小笠原長時は、国を失って十二年後に道統を託しました。じっとしていれば、家法もろとも消えていたはずです。禰津は徳川へ移りました。動いたから、活路が開いたのです。
先祖が何をしたかは、自分の腕には一切入ってきません。毎代、自分の足で動かなければ、何も残らない。
そして、ここに続くことの正体があります。
松は、変わらないから緑なのではない
松の木は、千年変わらず緑を保つといわれます。
けれども実際には、そうではありません。新芽が出て、古い葉が順に茶色になって落ちている。毎年入れ替わっているから、緑に見えているのです。じっとしていたら、同じ姿を保つことすらできません。
松は、二つのことを同時にやっています。
緑という芯は、変えない。そして葉は、毎年入れ替える。
うつろいやすい世の中に振り回されない、というのは、止まっていることではないと思います。世の中が変わるのに合わせて、自分の芯まで作り変えてしまわないということです。
そして芯を変えないために、そのまわりは変え続けなければなりません。芸を手に入れたからといって、そこに安住したら終わりです。
✦ さとえの見立て
禰津の放鷹術は、武田に仕える技から、徳川の鷹狩の技へと働き場所を変えました。鷹という芯は変えず、仕える相手のほうを変えたのです。小笠原長時は、総領家と弓馬礼法の家を分けるという前例のないことをしました。弓馬を残すために、家の形のほうを変えた。
どちらも、伝統を守ったのではありません。芯を守るために、変えたのです。
緑に見えていたのは、止まっていたからではなく、毎年新芽を出し続けていたからです。そして新芽を出すには、毎年コストがかかります。緑を保つのは、無料ではありません。
続いた家は、変わることを引き受けた家でした。守矢家は、同じ葉であろうとした家です。
ただし、ぶち破ることではない
ここで大事なのは、変わるというのが、型をぶち破ることではないという点です。
世阿弥に帰される言葉として知られる一句に、「型に入りて型を出づる」があります。本当の独創とは、徹底的に模倣し、それが模倣とは思えないほどになったあとで、体から出てくるもののことだ、という意味です。
ここでいう「型に入る」は、無理に自分を押し込むことではありません。型を身につけることでも、覚えることでもない。その人自身が、型そのものになることです。
型と本人のあいだに距離がなくなるので、意識も生まれません。呼吸を意識しないのと同じです。意識しているうちは、まだ入っていない。
三歳から始めるというのも、そのためでしょう。長くかかるから早く始めるのではありません。意識が育つ前に入れてしまうのです。自分で選んだ覚えがないほど深いところに置くから、体そのものになる。
そして「型を出る」も、破って出ることではありません。型そのものになった体が動けば、その動きは自然にその人のものになります。出ようとして出るのではなく、型である人間が動いた結果として、そうなっているのです。
型にならないまま型を壊すのは、ただの逸脱です。そこからは何も残りません。
新芽は、松から出ます。松でないところからは出ないのです。
鶴岡八幡宮の馬場で
小笠原家の伝えでは、始祖の小笠原長清は文治3年(1187年)に源頼朝から弓馬の師範とされ、二十六歳で弓始や流鏑馬などの儀式を執り行ったとされます。そして鶴岡八幡宮の流鏑馬神事そのものが、同じ文治3年に頼朝が始めたものと伝えられます。
いま鶴岡八幡宮で小笠原が弓を引いているのは、八百年後に別の場所で再現しているのではありません。始まった場所で、始まった家が、続けているということになります。
その八百年のあいだに、あの家は弓馬四天王の末席から故実の家になり、武田に国を奪われ、会津まで流浪し、道統を別の系統に託し、江戸には旗本として弓の師範を務め、明治を越えました。
所領は何度も奪われました。主家も変わりました。それでも、馬に乗って弓を引くという一点だけが切れなかった。
四人のうち、二人だけが残った
鶴岡八幡宮の流鏑馬には、もう一つの流派があります。武田流です。
春の流鏑馬は長らく、鎌倉市観光協会主催の「鎌倉まつり」の行事として、大日本弓馬会・武田流が奉納してきました。それが2023年を最後に鎌倉まつりの行事ではなくなり、いまは八幡宮の崇敬者大祭の神事として斎行されています。現在は春も秋も、小笠原流の奉仕です。
武田流の武田は、甲斐源氏の武田氏です。小笠原氏も甲斐源氏で、両者はもともと家柄を同じくしています。同じ源から枝分かれした弓馬故実が、二つの流派として今日まで続いているわけです。
ここで思い出してください。鎌倉初期の弓馬四天王は、海野幸氏、望月重隆、武田信光、小笠原長清でした。
滋野から二人、甲斐源氏から二人。四人が並んでいたのに、流派として八百年後まで残ったのは、甲斐源氏の二家だけです。
✦ さとえの見立て
上位にいた滋野の二家が消え、末席だった小笠原と、その同族の武田が残りました。
順位は入れ替わる、と前に書きました。けれども、いま鶴岡八幡宮の馬場を見ると、それは入れ替わりですらありません。海野と望月は、弓馬の家としては、もういないのです。
望月は馬の家でした。日本一の牧を持ち、都に駒を送り、歌に詠まれた家です。その家が、馬の芸を渡す家にはなりませんでした。
私が生島足島神社で「続いていたんだ」と思った望月と海野は、名としては確かに残っていました。けれども八百年後の馬場には、来ていません。
✦ さとえの見立て
鶴岡八幡宮の馬場を見るとき、私はそこに先祖がいると思います。
霊的な意味ではありません。三歳から体に入れられ、何代分もの体を通ってきたものが、いまその人の体で動いているからです。だから見ている側は、そこに先祖を見る。それは錯覚ではなく、実際にそうなのです。
家の存続のために、みな必死でした。必死になれたのは、自分ひとりの人生の話ではなかったからでしょう。前にも後ろにも体が連なっていて、その途中に自分がいる。切れさせるわけにはいかない。
紙は燃やすためにあるのだから、体に叩き込むのです。けれども体も、松の葉と同じように、いずれ朽ちます。だから次の体が必要になります。
伝統が続くというのは、それだけのことです。誰かがその負担を引き受け、徹底的に型そのものになる。その体から新しいものが出てくるようになったところで、次の体に渡す。それを繰り返しているあいだだけ、続きます。
所領は奪われます。紙は燃えます。しかも燃える前から忘れられています。口伝は、伝える体が途切れれば終わります。体も、いずれ朽ちます。芸は奪われませんが、ストックもできません。
それでも続いているものがあるとすれば、それは落ちる前に、次の新芽が出ていたということです。



