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『逃げ上手の若君』の郎党は史実か──風間・禰津・望月、三つの氏族の実像

北条時行を支える郎党たち。風間玄蕃、禰津神児(かむろ)、望月亜也子。彼ら一人ひとりは史料に見当たらない創作上の人物です。けれども、彼らが背負っている「氏」のほうは、まぎれもなく実在します。しかも三氏とも、中先代の乱で実際に時行の側に立った、あるいは立ちうる位置にいた一族でした。

キャラクターは虚構でも、配置は史実に忠実。そこがこの作品の面白いところだと思っています。

風間玄蕃──北信の諏訪神党

「風間玄蕃」という人物そのものは、史実には見当たりません。

しかし風間氏は実在する一族です。本拠は北信濃・水内郡風間郷、現在の長野市風間にあたります。

文献上の初見は文安6年(1449年)。風間郷が諏訪大社上社の御射山祭の頭役を割り当てられた記録です。その後、風間安芸守光貞が寛正2年(1461年)と応仁2年(1468年)の2回、上社の祭の頭役をつとめています。

御射山祭の頭役は、祭礼の費用と人員を負担する重い役です。これを繰り返し担うということは、風間氏が上社の祭祀組織に組み込まれた武士だったということ。つまり諏訪神党であったということです。

✦ さとえの見立て
ただし注意したいのは、これらの史料が15世紀のものだという点です。中先代の乱(1335年)からは、およそ100年以上あとになります。「1335年の時点で風間氏が諏訪神党だった」と直接証明する史料を、私はまだ確認できていません。作中で玄蕃が時行のそばにいるのは、氏族としての性格からの合理的な創作、と受け止めるのが正確だろうと思います。

禰津神児──滋野一族、そして230年後の起請文

禰津神児も創作上のキャラクターです。

一方、中先代の乱に滋野一族が諏訪頼重方として加わったことは『太平記』などに見えます。滋野一族とは、海野・望月・禰津の三家を指します。

禰津(根津)氏の本拠は東信濃・小県郡禰津郷、現在の東御市です。東御市には、禰津氏館跡がいまでも残っています。

生島足島神社の起請文

そこから約230年後、永禄10年(1567年)。長野県上田市の生島足島神社に起請文を提出しているのが、同じ禰津氏の子孫です。武田の信濃先方衆としての起請文でした。

生島足島神社には実際に行ってみることができました。写真撮影が禁止されているため写真はありませんが、あの起請文群が神社に納められたままである、という事実そのものがすごいとお思います。

その後、武田は滅亡します。禰津氏は徳川に属し、江戸期には旗本として存続しました。

禰津は放鷹術(鷹匠)の家として知られています。これが徳川の鷹狩と結びついて重用された。武力ではなく技能によって家をつないだかたちです。

月輪の布

漫画の中で、禰津神児は禰津家当主から月輪の模様のついた布を渡され、頭に巻いて馬にまたがっていました。

これは禰津氏の家紋です。出生が日陰であった者が、家に認められた瞬間を、台詞ではなく布一枚で見せている。よい映像だと思いました。

望月亜也子──没落した本家と、生き延びた庶流

望月亜也子という人物も、史実の記録には出てきません。望月重信の庶子、という設定の創作キャラクターです。

しかし望月氏は実在の一族であり、望月重信も実在していました。本拠は佐久郡望月、現在の佐久市望月町です。

中先代の乱では、望月重信が諏訪氏・海野氏・禰津氏とともに時行を擁して挙兵しました。ところが建武2年8月1日、鎌倉に在陣している留守を突かれ、本拠の望月城を信濃守護・小笠原貞宗方に落とされています(「市河文書」の市河倫房・助保着到状)。この打撃は相当だったようで、以後、望月氏は没落したといわれています。

「姫夜叉」を追いかけて

ところが亜也子の号が「姫夜叉」なので、そちらを調べてみました。

すると、望月ひめやさ(姫夜叉)は実在していました。望月氏の庶流で、元弘3年(1333年)10月に建武政権の信濃守・清原某から所領を安堵されています。

本家が中先代方について壊滅したのに、ひめやさは所領を失っていない。味方していなかったからだろう、と見られています。

✦ さとえの見立て
ここが一番おもしろいところでした。一族は一枚岩ではない、ということです。本家が挙兵して滅びても、別の選択をした庶流が残る。そうやって「望月」という名は消えなかった。
亜也子が本家の当主ではなく庶子として造形されているのは、おそらく物語の都合でしょう。けれども結果として、庶流こそが生き延びたという史実の構造と重なって見えるのは、偶然にしても出来すぎだと感じます。

怪力という設定について

亜也子の怪力という設定は、巴御前からきているのでしょう。

巴御前は木曽義仲の郎党であり、軍事参謀でもありました。軍略会議に出て、そのうえ武芸も強い。長野県出身の女性なら誰もが憧れる存在です。

✦ さとえの見立て

巴御前は『平家物語』に登場する人物で、『吾妻鏡』には見えません。実在したかどうかより、なぜあのように語られたのかのほうが、私には大事に思えます。

『平家物語』は木曽義仲の一党を、都から見た東国の人間として描きました。作法を知らず、荒々しく、それでいて強い。その語りの中で、巴は一人当千の兵として立ち上がります。都の物語が都の外を語ろうとしたときに生まれた像です。

都の女性は、歌を詠み、几帳の内から世を見た人として書き留められました。東国の女性は、馬に乗り、弓を引く者として語られた。どちらが優れているという話ではなく、記録する側が何を書き残したかの違いです。

ただ、信濃には具体的な例が残っています。この記事に出てきた望月ひめやさです。元弘3年に所領を安堵されているのは「望月氏の誰かの妻」ではなく、ひめやさ本人でした。武具を取ったかどうかよりも、こちらのほうが東国の女性の位置を示していると思います。

亜也子に怪力を与えた作者が、彼女を庶子として造形したこと。そして史実のひめやさが、自分の名で土地を持っていたこと。この二つが重なるとき、信濃に生まれた女として、少し誇らしい気持ちになります。

三氏族のまとめ

本拠 中先代の乱での立場 その後
風間氏 北信・水内郡風間郷(長野市風間) 直接の史料は未確認/諏訪神党 15世紀に上社御射山祭の頭役
禰津氏 東信・小県郡禰津郷(東御市) 滋野一族として諏訪頼重方 武田先方衆→徳川旗本(鷹匠の家)
望月氏 佐久郡望月(佐久市望月町) 望月重信が挙兵、望月城陥落 本家は没落、庶流は所領を維持

敗者につきながら、家名は残る

こうして並べてみると、一本の線が見えてきます。

南北朝では敗者側(諏訪・北条方)につき、戦国では武田に従属して主家が滅亡する。負ける側に、二度つく。それでも家名は残りました。

滅びなかったのは、勝ったからではありません。祭祀という役割を持っていたから、鷹匠という技能を持っていたから、あるいは一族の中に別の選択をした者がいたから。勝敗とは違う軸で、家はつながっていく。

『逃げ上手の若君』の郎党たちは創作です。でも、支えていた氏族というのは実際そのとおりでした。そして史料をたどっていくと、漫画が描いていない「そのあと」のほうに、もっと長い物語があります。

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