「御旗楯無も御照覧あれ」——四百五十年前に破られた誓いは、まだ効いている
甲府の信玄公祭りを見に行って、私は妙なことを考えていました。
武田家は天正十年(1582年)に滅んでいます。当主も嫡男も自刃し、家は途絶えた。それなのに、四百五十年前にその家の中でだけ通用していたはずの誓いが、いまだに人を縛っているように見えたのです。
御旗楯無とは何か
【史実】まず前提を整理します。
御旗——日の丸の御旗。後冷泉天皇が前九年の役に際して源頼義に下賜したと伝わる日章旗で、新羅三郎義光を経て甲斐武田家に伝来したとされます。現在は甲州市塩山の雲峰寺が所蔵。現存する日章旗としては最古級とされます。
楯無——正式名称は「小桜韋威鎧兜大袖付(こざくらがわおどしよろい・かぶと・おおそでつき)」。国宝で、甲州市の菅田天神社が所蔵しています。源義光所用と伝わり、「楯を必要としないほど堅固」だからこの号だと説明されます。天目山で勝頼が滅びる際に土中へ埋められ、後に掘り出されたという伝承も残っています。
この二つは、甲斐源氏の家督継承の証とされたセットでした。家督を継ぐ者がこの二品を継ぐ。物と地位が一体になっている。
そして評定の場で、当主が最終決断を下すときの宣言句が——
御旗楯無も御照覧あれ
この二品の前で誓った以上、以後の異議は許されない。そういう重みを持つ言葉でした。
誓いの「装置」としての御旗楯無
【さとえの見立て】私はこれを、神仏に誓うのと同じ形式で、家宝を証人に立てた装置だと読んでいます。
御旗楯無=証人。誓いを見届ける者。だから家中でのみ有効。
誓約というものは、破ったときの制裁が効く場でしか機能しません。ここでの制裁とは、神罰への恐れであり、それ以上に「約束を破った者」という評判が家中で通用しなくなることです。武田家が続いている限り、背いた者は家中に居場所を失う。だから拘束力があった。
裏を返せば——御旗楯無は、それ自体が力を持つ物ではなく、共同体が存続するという見込みに依存した装置だったということです。
共同体が終わるとき、装置も同時に終わる。物は無傷のまま、効力だけが抜ける。
そして武田家中でのみ効き、外には及ばない。だから織田は、あれを無視して勝ちました。
装置が止まった一か月
【史実】天正十年、装置が止まるまでの速さは異常です。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 2月末〜3月初 | 木曽義昌離反、高遠城落城(3月2日)、穴山梅雪離反 |
| 3月3日 | 新府城に火を放ち退去 |
| 3月11日 | 小山田信茂に拒まれ、天目山で勝頼・信勝・北条夫人自刃 |
| 3月中旬 | 武田信豊、小諸で下曾根に討たれる |
滅亡が確定した瞬間、制裁は消えました。穴山も小山田も下曾根も、背いた後の居場所を織田方に見つけていた。誓いを破っても失うものがなくなったからです。
——と、私はずっと思っていました。
ところが、制裁はまだ続いていた
2026年、私は甲府の信玄公祭りに行ってきました。
この祭りは1970年代に始まった新しい祭りで、その意味では「伝統」ではありません。でも、そこで私は御旗楯無を感じてしまったのです。
信玄公役の人がステージで「御旗楯無も御照覧あれ」と叫ぶ。観客も呼応して繰り返す。盃が割られる。
武田二十四将が兜を被り、家来を連れて城の上から降りてくる。庭園のステージで一人ずつ紹介され、その後は馬に乗って甲府の町を行進します。町中の人が通りに出て、歓声をあげながら手を振る。
二十四将を演じるのは、由来のある町の町長さんだったり、山梨で展開する大きな会社の重役さんだったりするのですが——そのうちの1人は、その将の本当の子孫が、先祖の役をやっていました。
その時だけ、一段と高い歓声と拍手が鳴り響くのです。
子孫が先祖を演じ、周囲がそれを尊敬をもって迎える。四百五十年前と同じ構図が、そこにありました。
そして。
小山田信茂と穴山梅雪の旗は、ありました。しかし演じていたのは、何の関係もない人でした。紹介されたときの人々の反応も、いまいちでした。
効力だけが生き残る
【さとえの見立て】四百五十年前の三月に破られた誓いが、今も人を支配している。
武田家は滅びたのに、誓いの効力だけが別の形で生き残っている。山梨県は今でも、武田を偲ぶ共同体なのだと思いました。
御旗楯無そのものは天正十年に効力を失い、寺社に納まりました。ところが江戸期の甲州流軍学が「誓いを破った男」の物語をつくり、それが四百五十年生き延びて、今なお反証活動を必要とさせている。
御旗楯無の制裁は、まだ続いていたのです。
顕彰会の困難
【史実】小山田信茂公顕彰会は、四百五十年間の「武田家を滅ぼした男」という汚名を晴らすことを目的として明記しています。
郡内小山田家が武田家旧温会(武田家臣子孫の会)への入会を認められたこと、また信茂の遺言書が出てきたことなどが伝えられています。主張の要点は「小山田はそもそも背いていない」。笹子峠は封鎖していなかった、兵は大月で待っていた、と。
【さとえの見立て】私は、少し複雑な気がしました。
「汚名を晴らす」が目的として掲げられている以上、都合のいい史料を採り、都合の悪い史料を軽く見てはいないだろうか、と。
小山田信茂を弁護するなら、本来は国衆の論理でよかったはずです。武田は国衆の連合体であって、絶対的な主従関係ではない。滅亡が確実な主家に領民ごと殉じる義務は、当時の常識としてはむしろ薄い。木曽義昌も穴山梅雪も同じことをしています。
「領民を救うために離れた」で名誉を回復すればよかったのではないか——と、山梨県民でない私は思います。
でも、その論法は取れない。
なぜならその筋道は、「裏切った」を一度認めることから始まるからです。認めた上で正当化する。そうすると、では御旗楯無の誓いはどうなるのか、という問いが必ず返ってくる。
「領主として当然の判断だった」では、地元の人は納得しないのでしょう。求められているのは合理性の説明ではなく、汚名の除去だからです。
おわりに
歴史は勝者が書く、とよく言われます。
でもここで起きているのは、少し違うことのように見えます。滅びた側の共同体が、滅びたあとも自分たちの内側で誓いを保存し続け、その誓いに照らして誰かを裁き続けている。勝った織田にとって御旗楯無は何の意味もなかったのに、負けた側では四百五十年も効いている。
物としての御旗と楯無は、今も雲峰寺と菅田天神社に静かに納まっています。効力は抜けたはずでした。
抜けていなかったのは、物のほうではなく、人のほうだったのだと思います。



