中華圏の若い女性のあいだでは、「九王奪嫡で誰が好き?」が挨拶がわりの質問になっているそうです。日本で好きな俳優を尋ねるのと同じ感覚で、三百年前の皇子たちの名前が飛び交う。
そして必ず上位に来るのが、第八皇子・胤禩——「八爺(バーイエ)」です。温厚で、思いやりがあり、敵にさえ礼を尽くす。『歩歩驚心』で、彼は愛される役どころです。
そして興味深いことに、三百年前の朝廷でも、彼はまったく同じように人気者でした。
康熙四十七年、群臣に後継候補を推挙させたところ、圧倒的多数が彼の名を挙げています。
それなのに、彼は負けました。
しかも、ただ負けたのではありません。爵位も宗籍も剥奪され、屈辱的な名に改めさせられ、幽閉のうちに死んでいます。
なぜでしょうか。答えは、意外なところにあります。彼が勝った日が、彼の終わりの日でした。
「八賢王」——何が評価されたのか
胤禩は康熙二十年(1681年)生まれ。康熙三十七年、十七歳で多羅貝勒に封じられます。このとき封じられた皇子の中で最年少でした。
同時代の評価は一貫しています。柔和で、腰が低く、身分の上下を問わず人に丁寧に接する。満洲貴族にも漢人官僚にも等しく好かれ、才能ある人材を惜しみなく引き立てた。
だから「八賢王」と呼ばれました。
これは、普通ならまぎれもない美点です。
出発点は、むしろ低かった
意外に思われるかもしれませんが、九人の中で血筋がいちばん低いのは彼です。
生母の良妃衛氏は、辛者庫——包衣(旗人の家僕身分)の中でも下層に位置づけられる出身でした。清朝の後宮で、辛者庫出身の女性が妃の位まで昇ったのは異例のことです。
しかも胤禩は、生母の手では育てられていません。大阿哥(第一皇子)の生母である惠妃納喇氏に養育されました。この納喇氏という一族は、大阿哥を後援した重臣・明珠の家系です。
つまり彼は、生まれた瞬間から派閥の中に置かれていたわけです。
そして彼は、その条件を人脈で埋めました。妻に迎えた郭絡羅氏(かくらくらし)は、安親王岳楽の外孫女——宗室の有力者と繋がる縁組です。
**血筋の低さを、人望と婚姻で補った皇子。**それが胤禩でした。
妻・郭絡羅氏——皇帝に逆らった女性
この妻については、少し詳しく書いておきたいと思います。
郭絡羅氏は、康熙帝から名指しで非難された女性です。嫉妬深く、胤禩に側室を持たせず、そのせいで子が少ないのだと。皇帝が皇子の妻を公然と叱責するのは、清朝でも異例のことでした。
そして彼女は、やめませんでした。
理由は簡単で、彼女には退く必要がなかったからです。母方は安親王家、実家は満洲の名門。皇帝の寵愛に依存しなくても立っていられる基盤を、彼女は生まれながらに持っていました。
夫が持たなかった「実家の太さ」を、妻のほうが持っていたのです。
結末も、この人らしいものでした。雍正四年、胤禩が宗籍を除かれた際、雍正帝は彼女を実家へ戻して離縁させます。彼女は**自ら死を選びました。**遺体は焼かれ、灰は撒かれたと伝わります。
夫と別れることを、拒んだということです。
康熙四十七年——勝った日が、終わりの日だった
康熙四十七年(1708年)、皇太子が廃されます。
この直後、康熙帝は群臣に命じました。「後継にふさわしい者を推挙せよ」。
結果は、圧倒的でした。佟国維、馬斉、阿霊阿、鄂倫岱、揆叙——朝廷の重臣たちが、揃って胤禩の名を挙げたのです。
康熙帝は激怒しました。
推挙は無効とされ、胤禩は「まだ経験が浅く、しかも罪を得た身であり、その母方の家もはなはだ微賤である」として退けられます。ほどなく皇太子は復位しました。
推挙で一位を取った皇子が、その推挙によって潰される。——何が起きたのでしょうか。
あれは諮問ではなく、試験だった
私の理解では、康熙帝は最初から胤禩を選ぶつもりなどありませんでした。あの推挙は、誰が誰と繋がっているのかを可視化するための試験でした。
そして結果は、皇帝にとって最悪のものでした。
推した顔ぶれを見てください。阿霊阿は鈕祜禄氏、鄂倫岱は佟佳氏、揆叙は納喇氏。満洲の名門が、示し合わせたように一人の皇子を推してきた。
これは後継者選びではありません。皇帝への圧力です。
康熙帝が本当に恐れていたもの
ここに、清朝の構造的な問題があります。
清朝はもともと、八旗の有力者による合議で後継を決める国でした。皇帝は絶対君主というより、有力者たちの上に立つ調整者だったのです。
康熙帝は、それを嫌いました。生後一年半の胤礽を皇太子に立てたのは、漢族王朝式の嫡長子相続——つまり皇帝が単独で後継を決めるやり方を持ち込むためでもありました。
そこへ、群臣による集団推挙が起きた。しかも一糸乱れぬ多数決で。
それは、彼が三十年かけて潰そうとしてきた古い仕組みが、まだ生きていることの証明でした。
胤禩の罪は、能力でも人格でもありません。貴族連合の旗頭になってしまったことそのものが罪だったのです。
「八賢王」という称号が、致命傷だった
ここが、この人物のいちばん皮肉なところです。
温厚で人当たりがよく、多くの人に慕われる。これは通常なら長所でしょう。
しかし専制君主の目から見れば、「多くの人に好かれる皇子」は、それ自体が脅威です。皇帝の権威は唯一でなければならないのに、宮廷の中にもう一つ、人気の中心ができてしまっている。
対照的に、第四皇子・胤禛は人望を集めませんでした。仏教に沈潜し、「破塵居士」「天下第一閑人」などと号して、政治から距離を置いた顔を作っていた。
だから警戒されなかったのです。
斃鷹事件——最後の一撃
康熙五十三年(1714年)十一月、康熙帝が熱河へ向かう途上のことです。
胤禩は生母の命日にあたるため同行を辞し、代わりに海東青(鷹)を献上しました。ところが届いたとき、その鷹は瀕死の状態だったのです。
康熙帝は群臣の前で胤禩を痛罵します。**「辛者庫の賤婦の産んだ子であり、幼少から心高く陰険である」。**そして——
「これ以後、朕と胤禩の父子の恩は絶えた」。
俸給も停止されました。誰かが仕組んだ罠だったのか、偶発の事故だったのか、史料は答えを出しません。
ただ、鳥一羽に対する反応としては明らかに過剰です。口実を探していたところに、ちょうどよい機会が来た——そう読む見方は昔からあります。私もその可能性が高いと思いますが、康熙帝が仕組んだと言える史料はありません。
いずれにせよ、この日をもって彼の望みは完全に絶たれました。十四皇子が大将軍王として西へ発つ四年前のことです。
即位後——廉親王から「阿其那」へ
雍正帝が即位すると、胤禩は意外にも厚遇されます。廉親王に封じられ、総理事務王大臣として工部と理藩院を任されました。
しかしこれは、猶予にすぎませんでした。
雍正四年(1726年)正月、黄帯子を革められ、宗籍から除かれます。名は「阿其那」と改めさせられました。同年九月、幽閉のうちに死去。四十六歳でした。
※「阿其那」の意味については、満洲語で「犬」を指すという説が広く流布していますが、近年の満洲語研究では否定的な見方が有力です。「凍りついた魚」など複数の解釈が提示されており、確定していません。
五十二年後
そして、この話には後日談があります。
乾隆四十三年(1778年)、乾隆帝は胤禩と胤禟を宗室に復し、本来の名を戻しました。伯父たちの死から半世紀が過ぎていました。
甥の代でようやく、彼は愛新覚羅胤禩に戻ったのです。
【私の見立て】
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
胤禩が負けた理由は、結局のところ負け方が最初から決まっていたということだと思います。
彼が集めた支持は、そのまま彼の罪状になりました。人望を得れば得るほど、皇帝から見た危険度が上がる。支持を集めるという行為そのものが、この構造では自殺行為だった。
そして彼には、それが見えていなかった。というより、見えるはずがなかったと思います。人に好かれることを罪だと考える人間は、そもそも「八賢王」にはなれません。
もう一つ、気になっていることがあります。
允祥、允礼、允禄——生母の出自が低い皇子たちは、後ろ盾を持たないがゆえに、雍正帝に重用されました。名門と繋がっていないから使いやすかったのです。
**胤禩は、同じく血筋が低いのに、正反対の道を歩みました。**婚姻と人脈で、満洲名門連合を築き上げてしまった。低い出自の皇子が、貴族たちの代表になった。
康熙帝にとって、これほど不気味な組み合わせはなかったはずです。生母を公然と罵倒したのは、単なる侮辱ではなく、「お前を担いでいる連中は、お前の血筋も知らないのか」という牽制だったのかもしれません。
なぜ現代のドラマでも、四爺は八爺に勝てないのか
『歩歩驚心』は、第四皇子を「冷たいだけの男ではない」と描こうとしています。若曦への一途さ、不器用な誠実さ、感情を表に出せない不自由さ。脚本はかなり丁寧に、彼の名誉回復を試みています。
けれど、視聴者の人気投票では、やはり八爺が上に来る。
これは脚本が弱いからではないと思います。構造がそれを許さないのです。
八爺は、他人に何かを与えることで魅力を発揮する人物です。優しさ、気配り、赦し。視聴者は彼が誰かに何かを与える場面を見て、好きになる。
四爺は、他人から何かを奪うことで物語を進める人物です。地位を奪い、自由を奪い、最終的には若曦の人生も奪う。どれだけ内面を丁寧に描いても、行動の総和は「奪う」なのです。人は内面より行動を見ます。だから、心情をいくら説明しても届かない。
そして皮肉なことに、これは史実の構造とまったく同じです。
胤禩は与える人でした。人材を引き立て、身分の上下なく礼を尽くし、だから慕われた。そして票を集めすぎて潰された。
胤禛は奪う人でした。城門を押さえ、補給線を握り、兄弟から爵位を奪い、名前まで奪った。そして勝った。
ドラマの人気投票と歴史の勝敗は、まったく同じ理由で正反対の結果を出しています。与える者は好かれて負け、奪う者は嫌われて勝つ。
『歩歩驚心』が四爺を救いきれないのは、彼を好かれる人物にするには、彼が勝った理由そのものを消さなければならないからでしょう。ちなみに『宮廷の諍い女』は、この問題に別の答えを出しました。四爺を救うことを最初から諦めて敵役に置き、果郡王という受け皿を用意して、視聴者の感情を全部そちらへ流したのです。
与え返した、ただ一人
もう一つ、書いておきたいことがあります。
この記事群でずっと見てきたのは、後ろ盾のない人たちの話でした。允礼は実家が細くて走らされ、四十二歳で倒れた。十四皇子が持っていたものは、爵位も郡王位も空手形だった。八爺は、集めた票がそのまま罪状になった。
八爺は、与えるばかりの人でした。人材にも、同僚にも、敵にさえ。そして与えたものが全部、彼を追い詰めていった。
**そのなかで一人だけ、彼に与え返した人がいます。**妻の郭絡羅氏です。
彼女は康熙帝から名指しで非難され、雍正帝からは「残刻」と評され、それでも夫が全部失うまで側を離れませんでした。現代の中華圏で彼女が人気を集めているのも、偶然ではないと思います。
→ 彼女については「[後宮ものの主人公にならなかった女性——八福晋・郭絡羅氏]」で詳しく扱っています。
集まり続ける票
九王奪嫡は、人望の競争ではありませんでした。要衝を押さえる競争でした。
胤禩は前者に勝ち、胤禛は後者に勝った。推挙してくれる人がいくら多くても、城門と兵站は動きません。
皇位継承は、人気投票ではなかったのです。
けれど三百年後、中華圏の女性たちが挨拶がわりに「八爺」と答えている。無効にされたはずの推挙が、いまも続いているようなものです。歴史が確定させた順位を、後世が採点し直している。
彼は名前まで奪われ、五十二年後にようやく愛新覚羅胤禩に戻りました。それからさらに二百五十年——票は、まだ集まり続けています。
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