『宮廷女官 若曦(歩歩驚心)』の終盤、第十四皇子が剣舞のあとに詩を朗読する場面があります。「六州歌頭・少年侠気」——若き日の義侠を、失われたものとして歌う詞です。
多くの視聴者が涙したあの場面の底にあるのは、こういう問いだと思います。
あれだけのものを持っていた人が、なぜ負けたのか。
十万の兵。父からの信任。党派の支持。天子の親征に等しい格式。——それでも彼は間に合いませんでした。
その理由を、三つに分けて見ていきます。
→ 詩そのものについては「[六州歌頭・少年侠気——十四皇子が朗読した詩の意味]」で扱っています。
十四皇子が持っていたもの
康熙五十七年(1718年)、ジュンガル部のチベット侵攻を受けて、胤禵は撫遠大将軍に任命されます。三十歳でした。
このときの待遇は、破格です。**「大将軍王」**と称され、**正黄旗の纛(軍旗)**の使用を許されました。正黄旗は皇帝直属の旗であり、その旗を掲げるということは、皇帝が自ら親征するのと同格という意味になります。
出征の見送りも異例でした。太和殿前に出征する王公が甲冑で整列し、出征しない王公と二品以上の大臣は午門の外に並ぶ。胤禵は跪いて勅印を受け、午門から出て、徳勝門から発しました。
清朝の歴史上、「大将軍王」と呼ばれた人物は、彼ただ一人です。
誰が見ても、次期皇帝の予行演習に見えました。
しかし、彼が持たなかったもの——爵位
ここに、見落とされがちな事実があります。
大将軍王の「王」は、爵位ではありません。
清朝の爵位は、和碩親王・多羅郡王・多羅貝勒・固山貝子——と続く十二等級です。「大将軍王」は職務と呼称であって、この序列のどこにも入りません。
では、胤禵の実際の爵位は何だったのか。
**固山貝子。**上から四番目です。
康熙四十八年(1709年)、太子復位にあわせて康熙帝は皇子たちを一斉に封じています。その内訳を見てください。
| 爵位 | 受けた皇子 |
|---|---|
| 和碩親王 | 第三皇子・第四皇子(胤禛)・第五皇子 |
| 多羅郡王 | 第七皇子・第十皇子 |
| 固山貝子 | 第九皇子・第十二皇子・第十四皇子(胤禵) |
**兄は親王。弟は貝子。**三段の差です。
そして西北で戦功を重ねても、この爵位は**最後まで一度も上がりませんでした。**天子の格式で送り出しておきながら、位は貝子のまま据え置く。この非対称は、記憶しておく価値があります。
敗因その一——距離
崩御は康熙六十一年十一月十三日、畅春園でのことでした。
このとき胤禵は、青海の陣中にいます。北京までおよそ二千キロ。
訃報が西寧に届くまでに日数がかかり、そこから北京へ戻るのにさらに日数がかかる。彼が北京に到着したのは十一月末——即位の儀は、とうに終わっていました。
「間に合わなかった」というより、間に合う可能性が最初から存在しなかったのです。
敗因その二——城門
では、軍を率いて戻ればよかったのではないか。十万の兵があったのだから。
それも不可能でした。
康熙帝の崩御後、**北京の九門は六日間閉鎖されます。**諸王は勅命なしに宮中へ入ることを許されませんでした。
この封鎖を実行したのが、歩軍統領の隆科多です。北京の九つの城門と城内の警備部隊を統括する職で、彼は康熙五十年からこの職にありました。
そして隆科多は、胤禛の養母・佟佳氏の弟——胤禛にとって養母方の叔父にあたります。雍正帝が公文書で彼を「舅舅(叔父上)」と呼んだのは、この関係によります。
**誰がどんな文書を持っていようと、城内に入れなければ何も起こりません。**遺詔の真偽をめぐる議論が、この一点の前ではほとんど意味を失うのはそのためです。
敗因その三——兵站
そして、軍を動かすという選択肢そのものが封じられていました。
康熙六十年(1721年)、年羹堯が川陝総督に任命されます。この職は、西北遠征軍の糧秣と輜重——つまり補給線を扼する位置にあります。
年羹堯は鑲白旗漢軍、すなわち胤禛の旗下の人間でした。妹は胤禛の側福晋です。
胤禵は十万を超える兵を持っていました。しかし**その兵を食わせる線を、兄の家臣が握っていた。**兵を率いて東へ向かうという選択は、初手から詰んでいたのです。
そして、党派も彼のものではなかった
もう一つ。八爺党は、胤禵を心から支持していたわけではありません。
本命は第八皇子・胤禩でした。康熙五十三年の斃鷹事件で彼が完全に失脚したため、代替として担がれたのが胤禵です。
しかも胤禵は、胤禛の同母弟でした。母は同じ烏雅氏。党の側から見れば、いざというときにどちらへ転ぶか読めない旗頭だったことになります。
→ この母子については「[雍正帝と生母・烏雅氏]」で詳しく扱っています。
即位後——三十三年
北京に戻った胤禵を待っていたのは、軟禁でした。
- 雍正元年四月——康熙帝の梓宮が遵化の景陵へ移されたのち、そのまま景陵に留め置かれ、帰京を許されず。馬蘭鎮総兵が監視につく
- 雍正元年五月——生母の死を受け、雍正帝は允禵を郡王に進める。ただし封号は与えず、黄冊の記載は固山貝子のままだった。允禵は「感恩の意なく、かえって憤怒の色あり」と記録される
- 雍正三年十二月——郡王を革め、貝子に降格
- 雍正四年四月——貝子も革め、子とともに景山寿皇殿に幽閉
雍正朝の十三年間を、彼は幽閉のうちに過ごしました。
乾隆元年、甥の即位により釈放。乾隆十三年に多羅恂郡王。**乾隆二十年(1755年)、六十七歳で死去。**諡は「勤」。
大将軍王として出征してから、実に三十七年後のことでした。
【私の見立て】
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
九王奪嫡を「人望の競争」だと思って読むと、この結末は理不尽に見えます。胤禩は群臣の推挙で圧倒的多数を得ました。胤禵は父に信任され、党派に担がれ、軍功を挙げました。それでも二人とも負けた。
あれは人望の競争ではなく、要衝を押さえる競争だったのだと思います。
胤禛が押さえたのは二点だけです。**北京の城門と、ライバルの補給線。**表舞台では「天下第一閑人」を自称し、仏教に傾倒しているという評判を立てながら、この二点だけを確実に握っていた。
そして、ここからが本題です。
その二つの人事を行ったのは、どちらも康熙帝でした。
隆科多を歩軍統領に据えたのは康熙五十年。年羹堯を川陝総督にしたのは康熙六十年——崩御のわずか一年前です。北京の門を胤禛の叔父に、そして遠征軍の生命線を胤禛の家臣に委ねている。
「康熙帝は胤禵を後継と定めていた」という説を取るなら、この配置は説明がつきません。二千キロ先へ送った息子の補給線を、なぜライバルの部下に預けるのか。爵位を貝子に据え置いたまま、なぜ天子の格式だけ与えたのか。
では康熙帝は、すべてを仕組んでいたのか。——そこまでは言えません。
私たちは結果を知っているので、過去のあらゆる手が準備に見えてしまいます。年羹堯の抜擢は四川での実績によるものかもしれず、隆科多の起用は佟佳氏が康熙帝自身の生母の一族だからかもしれない。そして何より、もし計画があったのなら、康熙帝はなぜ文書に残さなかったのか。秘密裏に後継を指名する制度を作ったのは、雍正帝であって康熙帝ではありません。
ですから、こう三段に分けておきたいと思います。
言えること——康熙帝は最晩年に、北京の警備と西北の兵站という二つの要衝を、いずれも胤禛と縁の深い人物に委ねた。
推測できること——少なくとも「胤禵を後継と定めていた」という説は、この配置と整合しにくい。
言えないこと——康熙帝が積極的に胤禛を選んでいたのか、決めかねたまま死んだのか、単に有能な人材を適所に置いただけなのか。史料は答えを出しません。
そして、この三段目こそが十四皇子の悲劇の本体だと、私は思うのです。
彼は負けたのではありません。**負けたのかどうかすら、確かめられなかった。**父が何を考えていたのか、誰も教えてくれないまま、三十三年を幽閉のうちに過ごしました。
あの詩の朗読が刺さるのは、そこではないでしょうか。
「私が何をしたというのだ」——答える人が、もう一人もいないのです。
◀ 関連:[六州歌頭・少年侠気の意味] | [九王奪嫡——清朝最大の皇位継承争い] |
[雍正帝と生母・烏雅氏] ◀



