『瓔珞』富察皇后のモデル・孝賢純皇后——理想の皇后を演じきった女性
※前回、『宮廷の諍い女(甄嬛伝)』の宜修皇后について、「慎み深い賢妻」という記録は皇帝にとって都合のいい物語だったのではないか、と書きました。では、その「皇后の理想」を押しつけられた女性は、ただの犠牲者だったのでしょうか。
今回取り上げるのは、ドラマ『瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~』(原題『延禧攻略』)の富察皇后と、そのモデルとなった乾隆帝の最初の皇后・孝賢純皇后です。書き始めたとき、私は彼女を、理想に縛られた気の毒な女性だと思っていました。けれど調べ、考えるうちに、見えてきたのはまったく違う姿でした。
結論——理想の皇后を演じきり、仮面のまま退場した女性
いちばん大事なところから。
- ドラマの富察皇后のモデルは、乾隆帝の最初の皇后・孝賢純皇后(こうけんじゅんこうごう)富察氏(フチャ氏)です。
- 彼女は、押しつけられた「理想の皇后」を、完璧に演じきりました。
- そして、その仮面がはがれる前に、37歳で世を去りました。
- そのことで、彼女は乾隆帝に生涯思慕され続け、今も清朝で最高の皇后として語られる存在になりました。
理想は、押しつけられたものでした。けれど彼女は、それに縛られて終わったのではありません。名門の誇りをかけてそれを演じきり、誰にも越えられない皇后として、青史に名を刻んだのです。
史実の孝賢純皇后——記録に残る「完璧な皇后」
まず、実在の彼女を押さえておきます。純元と宜修の記事で「1748年没」として名前が出た、あの皇后です。
- 生没年:1712年〜1748年(乾隆13年)。享年37(数え)。
- 出自:満洲鑲黄旗の名門・富察氏。父は察哈爾総管の李栄保。のちに大学士となる傅恒の姉です。
- 結婚:雍正5年(1727年)、皇子・弘暦(のちの乾隆帝)の嫡福晋となる。
- 皇后へ:乾隆帝の即位後、乾隆2年(1737年)に皇后に冊立。
- 子:長女(夭折)、次男・永璉(えいれん)、三女・固倫和敬公主、七男・永琮(えいそう)。成人したのは和敬公主ひとりでした。
「理想の皇后」の逸話
史書が伝える彼女は、まさに理想の皇后です。普段は真珠や玉の髪飾りを使わず、通草(つうそう、植物の茎の髄)で作った花を挿していた。満洲の祖先の質素を忘れないよう、獣毛で手作りした小物入れを夫に贈った。毎年、皇后がつとめる養蚕の儀式「親蚕礼」を主宰し、後宮の女性たちの手本となった。
こうした姿を伝える記録の多くは、夫の乾隆帝が残した言葉や詩文です。乾隆帝は彼女の死後、長い追悼文「述悲賦」を書き、その文は『清史稿』にも収められました。
嫡子への期待と、二人の息子の死
乾隆帝は、正室が産んだ嫡子に皇位を継がせることを強く願っていました。清朝では、それまで正室の子が皇帝になった例がなかったからです。
- 次男・永璉は、祖父・雍正帝が名づけた期待の子。乾隆帝はひそかに皇太子と定めていましたが、乾隆3年(1738年)、数え9歳で病没します。
- 七男・永琮は、皇后が30代半ばで授かった子。乾隆帝はこの子も後継ぎに内定しましたが、乾隆12年の暮れ(1748年1月)、天然痘のため数え2歳で亡くなりました。
永琮を失ったとき、乾隆帝は「先例のない嫡子の継承を望んだのは、私の過ちだったか」という意味の言葉を残しています。期待をかけたのは皇帝でしたが、その期待を身体で引き受けたのは、皇后でした。
旅先での死
永琮の死からわずか2か月後、乾隆13年(1748年)2月、皇后は皇帝と皇太后に従って山東への東巡に出ます。しかし旅の途中で風邪をこじらせ、帰路の3月、山東・徳州に停泊した船の上で亡くなりました。
死因は病とされています。ただ、急な死であったことから、自ら川に身を投げたという俗説も生まれました。これを裏づける確かな史料はありません。
「賢」という名を望んだ皇后
「賢」は、才知と徳をあわせ持ち、ふるまいが正しい人を表す字です。皇后に使われるときは、もう少し具体的な意味を帯びます。中国の伝統では、「賢后」「賢妻」とは次のような女性を指しました。
- 夫を正しい方向へ支え、ときに諫めることもできる
- 嫉妬せず、後宮のほかの妃たちを公平に扱う
- ぜいたくをせず、質素を重んじる
- 自分の家(実家)の利益のために夫を動かさない
つまり「賢」は、皇后として理想的に身を処した人への最高の褒め言葉です。通草の花や手作りの小物入れの逸話は、まさにこの「賢」の中身そのものでした。
乾隆帝によれば、皇后は生前、亡くなった妃に「賢」の字が贈られたのを見て、自分も死後はこの字を賜りたいと語っていたそうです。乾隆帝はその願いどおり、彼女に「孝賢」の諡号を贈りました。
彼女は、理想の皇后として名を残すことを、自ら望んでいたのです。押しつけられた理想を、自分の願いとして引き受けた。そこに、この皇后の誇りがあったのだと私は思います。
ドラマ『瓔珞』の富察皇后——気の毒な皇后として描かれた人
『瓔珞』(2018年)の富察皇后は、ドラマの中で「富察容音(ようおん)」という名を与えられています。この名は創作で、史実の皇后の名は伝わっていません。演じたのは秦嵐(チン・ラン)です。
ドラマの彼女は、優しく、公正で、誰からも慕われる皇后です。主人公の侍女・魏瓔珞を守り、導く、物語の良心のような存在。皇后らしく振る舞い、皇帝の期待に応え、嫡子を産み、後宮を治める。その完璧さの裏で、彼女は少しずつすり減っていきます。
二人の息子を失い、信じていた侍女に裏切られたとき、彼女は、もう理想の皇后であり続けられない日が近いことを悟ったのかもしれません。最期、彼女は紫禁城の高所から身を投げます。そのとき、これからはもう皇后ではなく、ただの富察容音として生きる——そういう意味の言葉を残します。
ドラマは、皇后という役目から解き放たれていく女性として、見る人が富察容音を気の毒に思うように描いたのだと思います。けれど、私の読みは違います。それは後の見立てで書きます。
なお、史実の彼女は旅先の船上で病死しており、宮中での自死はドラマの創作です。
ちなみに『瓔珞』には、甄嬛のモデル・鈕祜禄氏が乾隆帝の母(皇太后)として登場します。『甄嬛伝』とは、同じ紫禁城の、一代あとの物語なのです。
✦ さとえの見立て——理想の皇后として、青史に名を刻む
ここからは私の推測です。
押しつけられた理想
「慎み深く、質素で、夫を支え、嫡子を産む」。皇后に求められた理想は、美しい言葉で語られます。けれど中身は、泣きたいときにも皇后らしく、恨みたいときにも賢く、そして跡継ぎを産めるかどうかが自分の価値そのものになる、という要求でした。それが押しつけられたものだったことは、間違いありません。
演じきった誇り
正直に言うと、私も最初は、彼女を「都合のいい理想の妻」に縛られた気の毒な女性だと思っていました。けれど、名門に生まれた女性のプライドは、生半可なものではないはずです。日本でも、武士は命よりも名を惜しんだと言われます。まして皇后に冊立された女性です。天下一の女性としての誇りを、誰よりも強く持っていたはずです。
「青史に名を刻む」。歴史に名を残すことは、昔から男性の願いとして語られてきました。けれど、女性だって同じように、青史に名を刻みたいと渇望していたはずです。ただ、皇后に許された道はたった一つ、理想の皇后として記録されることでした。富察皇后が死後の名に自ら「賢」の字を望んだのも、その一つしかない道で、自分の名を歴史に刻もうとしたからではないでしょうか。
そして、彼女が背負っていたのは、自分一人の名だけではありません。満洲鑲黄旗の名門・富察家の名誉のためにも、皇后は完璧でなければならなかったのです。
縛られていたのではなく、押しつけられた理想を自分の意志で背負い、完璧に演じきった。今の私は、そう読んでいます。
仮面がはがれる前に
けれど、その理想は、生き続けるかぎり、いつか崩れるものでした。容貌は衰え、年を重ねれば、もう子を産めなくなる。嫡子を産むことが価値とされた皇后にとって、それは理想から外れていくことを意味します。
ドラマの富察容音が自ら命を絶ったのは、仮面がはがされることを恐れ、理想を完璧に演じきったまま、誰にも越えられない皇后として終わるためだったのではないか。私はそう読んでいます。名門のプライドは、死んでもプライドのはずです。彼女の胸にあったのは、「私を越えられるものなら、越えてごらんなさい。私は歴史に名を残す皇后なのよ」という思いだったのではないでしょうか。
史実の彼女の死因は病とされています。それでも、身を投げたという俗説が生まれたのは、人々がそこに同じものを感じ取ったからかもしれません。
死んで完成した理想——追随を許さない皇后
理想の皇后のまま退場したことで、彼女は「理想の皇后」の座に永遠におさまりました。年を取ることも、皇帝に飽きられることも、失敗することもない。乾隆帝はその後何十年も彼女を悼む詩を書き続け、彼女の住んだ長春宮を、遺品とともに長く残させたと伝わります。そして今も、彼女は清朝で最高の皇后として語られています。もう誰も、彼女をしのぐことはできません。
死んで完成した皇后の名誉は、乾隆帝の思慕を通して、弟の一族にまで及びました。弟の傅恒(ふこう)は、姉が亡くなったその年に大金川の戦いの指揮を任され、やがて軍機大臣の筆頭、保和殿大学士にまで上りつめます。20年以上にわたって乾隆帝の最も信頼する重臣であり続け、死後には「文忠」の諡号を贈られました。息子の福康安は、皇族以外では異例の郡王にまで封じられています。もちろん本人の実力あってのことですが、その入口に、姉が守り抜いた名があったことは確かでしょう。皇后が演じきった理想は、彼女一人のものではなく、富察家の名誉そのものになったのです。ちなみに『瓔珞』で傅恒を演じたのは許凱(シュー・カイ)。ドラマでの大人気にも、姉・富察皇后の面影が重なっているのかもしれません。
誰にも越えられない皇后として残ること。それは、ただの名誉ではありません。自分の後に皇后になる者にも、さらに次の世代の皇后になる者にも、決して追随を許さないということです。彼女の胸の奥には、こんな思いもあったのではないでしょうか。「あとに続く者は、決して私を越えられない。私はこれだけ頑張ったのだから」。
死んだ理想の妻には、生きている人間は絶対に勝てません。その重さを背負わされたのが、次の皇后・烏拉那拉氏(ドラマ『如懿伝』の如懿のモデル)でした。彼女はやがて乾隆帝と決裂し、旅先で自ら髪を切るという事件を起こします。その後、皇后の位を示す冊宝を取り上げられ、亡くなっても皇后としての葬儀は行われず、諡号さえ贈られませんでした。
なぜ、あれほどひどく扱われたのか。ここからはさらに私の推測ですが、乾隆帝の心の中には、いつも完成された富察皇后がいたのではないでしょうか。継皇后は皇后という理想の型の中に入ったうえで、そこから反旗をひるがえしました。皇后が夫に逆らうことは、「賢」の型そのものを壊すことです。だからこそ乾隆帝は、冊宝を取り上げ、諡号も贈らないという、型からの追放で応えたのだと私は読んでいます。
これは、『甄嬛伝』の純元とまったく同じ構図です。純元も早くに亡くなり、皇帝の中で永遠の理想の妻となりました。宜修はその影の中で生き、甄嬛でさえ純元の身代わりとして愛された。ドラマが創作した純元と宜修の関係は、史実の富察皇后と継皇后の関係に、驚くほど重なっています。男が理想の妻を求めるかぎり、死んだ女性は永遠の名誉を得て、生きている女性はその名誉に負け続ける。死んで完成した名誉は、そのまま、あとに続く者に追随を許さない高い壁になるのだと思います。
理想の外に立った瓔珞
一方、ドラマの主人公・瓔珞は皇后ではなく妃です。皇后に求められる「賢」を背負っていません。同じように口答えをしても、それは反逆ではなく、才気や機知として受け取られます。
『瓔珞』の作り手は、富察皇后の座を誰も越えられないことを分かっていたのだと思います。だから主人公を理想の皇后と張り合わせず、型の外に置いた。口答えする女、言いかえれば才気あふれる女として描くことで、富察皇后の理想を汚さずに、主人公を輝かせたのです。口答えは、誰がするかで反逆にも才気にもなる。皇后がすれば罰せられ、妃がすれば愛される。
| 理想との向き合い方 | 結末 | |
|---|---|---|
| 富察皇后 | 理想を演じきり、仮面のまま退場した | 永遠の理想の皇后となる |
| 継皇后(烏拉那拉氏) | 理想に反旗をひるがえした | 冊宝を取り上げられ、諡号もなし |
| 瓔珞(魏佳氏) | 理想の外で才気を見せた | 皇帝に愛され、息子が皇帝となる |
ただ皮肉なのは、史実の魏佳氏にも、死後に諡号「孝儀純皇后」が贈られたことです。生前は皇后ではなかった彼女は、息子の嘉慶帝が皇太子に定められたことで、皇后の位を追贈されました。本人の字は「儀」、つまり人の手本となる、礼にかなった立ち居ふるまい。そして名前は「孝」で始まり、夫の「純」で閉じられます。型の外で生きた女性も、最後は型の中に収められてしまったのです。
まとめ
史実の孝賢純皇后は、押しつけられた理想の皇后を完璧に演じきり、その仮面がはがれる前に世を去りました。だからこそ乾隆帝は生涯彼女を思慕し続け、今も彼女は清朝で最高の皇后として語られています。
ドラマは最期に、「もう皇后ではなく、富察容音として」という言葉を彼女に与えました。けれど私には、彼女の本当の声は別のところにあったように思えます。「私を越えられるものなら、越えてごらんなさい」。理想を押しつけられながら、それを自分の誇りに変え、最後まで手放さなかった、名門の皇后の声です。
歴史が存在するかぎり、彼女は永遠の勝利者なのです。
◀ 対の記事:[純元皇后と宜修皇后のモデルは実在する?] | [甄嬛のモデル(孝聖憲皇后・鈕祜禄氏)]



