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札幌農学校の父、ウィリアム・スミス・クラーク博士の生涯

「Boys, be ambitious!」という言葉で日本人に親しまれているクラーク博士。この偉大な教育者の生涯を振り返ってみましょう。

多才な学者として歩み始めた青年時代

ウィリアム・スミス・クラーク博士は1826年、アメリカのマサチューセッツ州で生まれました。アマースト大学では化学、動物学、植物学という3つの専門分野を教える多才な学者でした。その後、マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)の学長という要職に就任し、教育界でその名を知られるようになります。

南北戦争での軍人としての経験

1860年から1865年にかけて勃発した南北戦争では、クラーク博士は北軍将校として従軍しました。戦場でも優れた指導力を発揮し、陸軍将校としての能力の高さが認められ、なんと准将への推挙を受けるほどでした。しかし博士は、この栄誉ある地位を辞退してしまいます。

なぜでしょうか?それは博士の教育に対する強い信念があったからです。

教育への深い信念

戦争が終わると、クラーク博士は再びマサチューセッツ農科大学に戻りました。博士は次のような教育哲学を持っていました:

「学校の教育がしっかりしていれば、その国は自ら繁栄し、教育を軽んじれば、国は滅亡の危機に瀕する」

この言葉からも分かるように、博士は教育こそが国の発展の礎であると考え、自らの人生を教育に捧げる決心をしていたのです。

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運命の出会い:新島襄との縁

アマースト大学で教鞭を取っていた時期、博士の学生の中に新島襄がいました。この出会いが、博士の人生を大きく変えることになります。新島襄の紹介により、日本政府からの要請を受けて、1876年6月、クラーク博士は遥か極東の地、札幌農学校へと向かったのです。

札幌農学校での革新的な教育

札幌農学校でのクラーク博士の教育は、まさに革新的でした。マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植し、講義はすべて英語で行われました。生徒たちは先生の話をノートに書き写すという、当時の日本では珍しい教育スタイルが導入されたのです。

博士の教育への情熱は並々ならぬものでした。毎晩30名以上の生徒のノートを集めて、内容を正したり、スペルチェックをして返すという細やかな指導を続けていたのです。

将来を見据えた軍事教育

クラーク博士は、生徒たちが将来日本が戦争をしなくてはならなくなった場合に備えて、陸軍将校として活躍できるよう軍事演習も行いました。これは博士の南北戦争での経験に基づくもので、「戦争において優れた将校がいれば、それだけ味方の人的被害も少ない」という考えからでした。

永続する教育の遺産

クラーク博士の札幌での滞在は短期間でしたが、その影響は計り知れないものでした。博士が蒔いた教育の種は、多くの優秀な人材を育て、日本の近代化に大きく貢献することになったのです。

教育への深い愛情と信念を持ち続けたクラーク博士の生涯は、現代の私たちにも多くのことを教えてくれています。真の教育者とは何か、そして教育が持つ力の大きさを、博士の生き様から学び取ることができるのではないでしょうか。

 

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