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鉄帽子王・肅忠親王善耆(川島芳子の父)日本との深い縁

鉄帽子王とは

清朝には「鉄帽子王」と呼ばれる特別な皇族がいました。これは清朝建国に際して殊勲を立てたヌルハチ一族の8人に与えられた最高の称号で、その爵位を永久に世襲できる特権を持っていました。

肅親王家は、その鉄帽子王の一つです。初代肅親王は、清朝2代皇帝ホンタイジとウラナラ氏との間の長子でした。

10代肅親王・善耆という人物

10代肅親王となった善耆は、清朝末期の激動の時代を生きた人物です。彼は日増しに傾いていく清朝を憂い、明治維新のような立憲君主制による清朝の再興を熱望していました。

しかし、西太后の権威を嵩にきる守旧派の妨害によって改革は実現せず、1911年に辛亥革命が勃発してしまいます。

義和団事件と日本との縁

1900年に起こった義和団事件の際、肅親王家は王府に日本人居留民を避難させ、その安全を守りました。当然、王府は義和団の攻撃を受けてボロボロになってしまいました。

このことで日本政府は肅親王に深い恩義を感じることになります。この出来事が、後の日本と肅親王家の深い関係の始まりでした。

清朝最後の抵抗

辛亥革命後、袁世凱は皇帝の退位を要求しました。これに最後まで反対したのが、肅親王善耆と恭親王溥偉でした。

しかし、袁世凱の脅迫にあった多くの大官が退位を承諾する中、善耆はやむなく北京を脱出し、旅順へと逃れました。

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川島芳子の誕生秘話

北京脱出後も、善耆は日本の協力による清朝の復辟を熱望し続けました。その思いから、わずか7歳の娘・顕㺭を川島浪速の養女とし、日本名「芳子」を与えたのです。

これが後に「男装の麗人」として知られる川島芳子です。

「忠」の字を賜った理由

善耆が亡くなった時、溥儀皇帝から「忠」の字を賜りました。これは溥儀皇帝に最後まで忠義を尽くしたことへの感謝の印でした。

そのため、彼は「肅忠親王善耆」と呼ばれるようになったのです。肅と親王の間にある「忠」の字には、こうした深い意味があります。

失われた記憶

旅順には日本人有志により、肅親王善耆の胸像と記念碑が立てられたそうですが、残念ながら壊されてしまいました。

また、善耆は先祖とともに北京市に葬られたそうですが、墓の石碑など全て打ち砕かれ、現在はグラウンドや倉庫になっており、跡形もないそうです。

歴史の激動の中で、日中両国の架け橋となろうとした一人の皇族の痕跡は、こうして消されてしまいました。


川島芳子のお墓をお参りする際には、ぜひ彼女の父・肅忠親王善耆のことも思い出してください。

長野県松本市蟻ヶ崎にある川島芳子の墓のそばには、肅忠親王善耆の書の石碑がたっています。(写真)

清朝復興を夢見て、娘を日本に託した父の思いと、激動の時代に翻弄された一族の物語が、そこにあります。

 

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