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清朝末期から満州国期に至る肅親王家

 肅親王家の歴史的地位

肅親王家は、清朝の二代目皇帝ホンタイジ(皇太極)の系統に連なる名門宗室である。

この系譜は清朝の中でも特に重要な位置を占め、歴代の肅親王は清朝において高い地位と影響力を保持してきた。

また、肅親王家は単なる宗室としての地位だけでなく、実務能力においても評価されていた。

歴代の肅親王は軍事や行政において重要な役割を果たし、清朝の統治体制の中で確固たる位置を築いていた。

溥儀即位時の状況と肅親王家

1908年、光緒帝と西太后が相次いで崩御し、わずか2歳の溥儀が即位することとなった。

当時の肅親王善耆は、宗室の重鎮として、新帝の即位に際して影響力を持っていた。

しかし、摂政の地位をめぐっては、溥儀の生父載灃が就任することとなり、

肅親王家は直接的な政治指導からは距離を置く形となった。

清朝末期の肅親王家の政治の仕事は賄賂を取らない立派な人であったという評価がされていたのにも関わらず、

現在その評価が埋もれてしまっている事は悲しい事である。

 

辛亥革命期の対応

1911年に辛亥革命が勃発すると、清朝の存続そのものが危機に瀕することとなる。

この間、肅親王善耆は、宗室の立場から清朝の存続に向けて尽力した。

肅親王は最後まで反対したが、1912年2月、溥儀の退位によって清朝は終焉を迎えることとなった。

 

 民国期

退位後、溥儀は紫禁城に留まることを許された。

この時期、肅親王家は、清朝の遺臣として、また宗室の重鎮として複雑な立場であった

張勲復辟(ちょうくんふくへき)

中華民国の内部紛争に乗じて1917年7月1日から7月12にまでの12日間、

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清朝の旧臣張 勲(ちょう くん)が、清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀を復位させた事件。

張勲による復辟の際には、肅親王家も間接的に関与することとなるが、この試みは失敗に終わる。

張勲復辟は、国内各種勢力や世論から激しい反感を買った。

しかも、かつて督軍団の首領と目されていた張勲であったにもかかわらず、

督軍団の督軍たちからも支持は得られなかったのである。

張 勲 について述べると、彼は、終生皇帝に忠誠を誓い、近代化の世に至ってもなお洋装を嫌い、終生辮髪を切らなかった。

この事件は、清朝復活の困難さを示すと同時に、宗室の政治的影響力の限界を浮き彫りにした。

 満州国

1932年の満州国建国。

溥儀が満州国皇帝となった満州国において、肅親王家は重要な地位を占めることとなる。

肅親王善耆の息子が国務総理大臣を務め、満州国政府の中枢として大きな役割を果たした。

このように、肅親王家は満州国においても清朝宗室としての地位を維持しながら、新たな国家体制の中で実質的な政治権力を掌握する立場となった。

中華人民共和国から現在

肅親王家は、戦犯とされ、現在まで評価されていない。

歴史的評価

清朝末期から満州国期に至る激動の時代において、様々な変遷をがあった。

伝統的な清朝体制から近代国家への移行期における、旧支配層の苦悩と選択を表すものでもあった。

 

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