はじめに
台湾の人気テレビドラマ「茶金」は、
実在の実業家・姜阿新(きょうあしん)の生涯を描いた作品です。
しかし、この物語の真の感動は、
茶業王として栄華を極めながらも倒産で全てを失った姜阿新の名誉を、
娘婿が驚くべき方法で回復させた「究極の孝行」にあります。
失われた屋敷を自分の手で買い戻し、
さらに手記を著して義父を「立派な人」として世に知らしめた娘婿の行動は、
儒教が説く「孝行の終わり」を見事に実践した感動的な物語です。
姜阿新の出生と青少年時代
姜阿新は1901年に生まれました。
本姓は蔡でしたが、姜清漢に子供がいなかったため、幼くして養子となります。
1915年に北埔公学校を卒業後、台北の北京語学校北京語科に入学。
さらに1919年には東京の明治大学法学部に1年間留学するという、
当時としては恵まれた教育を受けました。
1932年、田中利七が北埔村の村長を務めていた時代に、姜阿新は彼の秘書として働きました。
家督相続と事業への挑戦
1935年、姜阿新は家督を相続します。
しかし若い頃の彼が事業を起こそうとする際、父親は何度も反対しました。
テレビドラマにも描かれているように、
婿養子である父親は「家を潰さないよう、アヘンを吸って大人しくしていろ」と言われる立場でした。
そんな父に隠れて、姜阿新は大坪や四十二坪などの先祖伝来の土地で植林事業を成功させます。
この成功を見て初めて、父親は彼の事業への資金提供に同意したのです。
茶業界への参入と急成長
1930年代、日本の三井農林会の岩倉和馬の支援と地元茶師の援助により、
姜阿新は多くの茶工場を所有するようになりました。
当時は機械製茶工場と伝統的な手作り製茶が混在していましたが、
彼は「三井物産」と提携し、北埔港に最新設備を備えた紅茶工場を建設しました。
その後、次々と茶工場を買収します:
- 北埔茶廠(昭和9年)
- 峨眉茶廠(昭和10年)
- 衡山茶廠
- 五峰茶廠
- 大坪茶廠(昭和11年)
1939年当時、姜阿新は北埔と大坪に2つの大きな工場を持ち、
台湾最大規模かつ最新の機械化設備を誇る製茶工場を運営していました。
巧妙なマーケティング戦略
マーケティング面では、
姜阿新は「Ho-ppo tea」(北埔茶)というブランドでスリースターの商標を使用。
王室御用達のようなロゴを採用することで高級感を演出し、高級茶としてのブランディングに成功しました。
当時、国際紅茶市場はダージリン紅茶が独占していましたが、
姜阿新の紅茶はその品質でダージリン茶を凌駕するほどになったのです。
事業の絶頂期
1946年、同社は製茶業だけでなく、林業、製糖業、運輸業にも投資を拡大しました。
この時期はジャーディン・マセソンや三井物産と密接な関係を持ち、
来客を迎えるための「姜阿新洋楼」を建設するほど隆盛を極めました。
新しい茶工場は戦後の大量茶需要に応えるのに十分な規模を持ち、
イギリス、アメリカ、南アフリカ、北アフリカ、香港などへ販売されました。
茶業の衰退と苦境
しかし1950年以降、インドなど重要な茶産地が生産を再開し、
台湾の紅茶産業は国際的な優位性を失っていきます。
姜阿新の大規模な紅茶工場は危機に直面し、事業拡大戦略による多額の借入金が重荷となりました。
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紅茶から緑茶の輸出市場への転換、ウーロン茶の品質向上など、
活路を見出そうと努力しましたが、最終的に1965年に倒産し、
茶業に終止符を打つこととなりました。
二極化する評価
姜阿新は故郷の北埔を離れることを余儀なくされ、
多くの北埔村民が失業や移転の影響を受けました。
戦後の経済恐慌と農村の苦難の中で
人々の生活と経済を押し上げる重要な役割を果たしたにも関わらず、
村民の姜阿新に対する評価は二極化してしまいました。
娘婿による究極の名誉回復 ~本を著して父の名を高める
姜阿新の名誉回復のため、娘婿は二つの偉大な行動を取りました。
まず、多くの手記を著述することでした。
その中で娘婿は、政治的危機と茶商経営の行き詰まりで破産を宣告されざるを得なくなったときでも、
信用を重んじる姜阿新は先に茶農家と社員に資金を回し、
「台湾の情と義のある生き方を貫いた立派な人物」として義父を描きました。
そして、人手に渡った屋敷の買い戻しです。
倒産によって失われた姜阿新洋楼を、娘婿は自らの力で買い戻し、
さらに家具まで取り戻しました。
現在この屋敷は子孫によって大切に維持され、ガイド付きで一般公開されています。
この二つの行動こそが、儒教で説く
「立派な人生を送り、父母の名を高めることが孝行の終わり」を完璧に実践したものでした。
孝行の始まりと終わり
娘婿の記録には、儒教的な「孝」の概念が色濃く反映されています。
孝の始まりとして、親に仕え大切にし、人格を形成していくことの重要性が説かれています。
与えられた職責を忠実に果たしながら、上にいる者を補うよう努めることが求められました。
姜阿新はロマンチストで義理人情を大切にするあまり、
損をかぶることも多い人でした。
娘婿は会社で自分の職務を果たしながら会計を見て父親を補佐し、
コストを節約して債務を負った茶師や従業員を助け、会社の経営立て直しに奔走しました。
孝の終わりとして最も重要なのは、
倒産で人手に渡った屋敷を自分の世代で買い戻し、家具も買い戻すことでした。
そして何より、手記を著して父親の名前を高めることが挙げられています。
立派な人生を送り、父母の名を高めることが孝行の終わりであるという信念のもと、
娘婿は義父を「信義を重んじ、情と義のある生き方を貫いた立派な人物」
として後世に伝えるために筆を取ったのです。
おわりに
姜阿新の娘婿による屋敷の買い戻しと手記の著述は、まさに「孝行」の最高峰を示しています。
単に物質的な財産を取り戻すだけでなく、
本を著して義父を「立派な人物」として世に知らしめるという行為は、名誉の完全な回復を意味しました。
倒産によって全てを失い、村民からの評価も二極化してしまった義父の真の姿を、
娘婿は丹念な記録と深い理解をもって後世に伝えました。
家を買い戻し、本を書いて名を高めるという二つの偉業は、
真の家族愛と、台湾の伝統的価値観である「孝」の精神を見事に体現しています。
今もこの屋敷は大切にされ、訪れた人に子孫がガイドをつとめて案内してくださいます。