宇文護と独孤般若のラブロマンスは本当だったのか 宇文護の史実
ドラマと史書の中の独孤般若
ドラマ中の宇文護と独孤般若は相思相愛の間柄。
般若は宇文護を愛していたが、彼への愛よりも父である独孤信(どっこしん)の意向を選び、「独孤天下」という予言を信じた父の命により宇文毓に嫁ぐが、難産のため死亡する。
史書には、宇文毓の夫人として迎えられ、宇文毓の即位から2か月後の558年1月に王后に立てられながら、同年4月に死去したとある。
宇文護の史実
宇文護(513-572)は、戴県武川鎮(現在の内モンゴル自治区武川県)出身。
西魏・北周時代の有力な官僚・政治家。
宇文護 は幼少の頃、叔父の宇文泰に従って東魏との戦いに多く参戦した。
多くの戦いで成功を収め、総督、征討将軍、胡帥将軍を務めた。
宇文泰が西魏の中心人物になった頃には重臣の一人になっていた。
556年,宇文泰は病死し
その子供たちが幼かったことから、遺命によって後継の宇文覚を補佐することになったが、
実質は専横しているようなものであった。
西魏の恭帝から宇文覚へ禅譲させる工作を進める中で、専横に反発した重臣の趙貴、独孤信(どっこしん)が謀反を企てるが、
事前に察知して両名とも殺害し、独裁体制を確立させる。
宇文覚も宇文護の専横ぶりに反発して排除をはかったが失敗し、557年に廃位・殺害され、宇文毓が代わって擁立された。
557年、西魏から禅譲させ、北周を建国した。
宇文毓は皇帝になった。夫人は、独孤般若。
宇文護は大司馬に任命され、晋公に昇格した。
560年宇文毓が鋭敏なのを見て毒殺し、宇文護は宇文泰の四男である宇文邕を皇帝に任命した。
北周の成立後、宇文護は国を治め、次々と皇帝を殺害することによって
北周政権は安定した。
北周の事実上の支配者となった。
宇文邕は先帝2人とは違って愚鈍さを見せていたので、軍権を掌握していた宇文護はすっかり安心していた。
しかしその愚鈍ぶりは演技で、裏では近臣たちと暗殺計画を練っていた。
572年、宇文邕(武帝)によって謀殺され人生の幕を閉じました。
宇文護と独孤般若のラブロマンスは本当だったのか
史書には、記録がなく、また般若の父が宇文護に殺されていることをみると、2人にラブロマンスは生まれなかったと思います。
宇文護の評価
北周は孝閔帝から始まり明帝へと続く。
(557年)から北周の建徳元年(572年)までの15年間、宇文護が中央政権を治め、北周王朝に安定効果をもたらした。
史書には暴虐とあり、宇文護とその息子たちや、配下は好き勝手に暴力をふるい、財貨を貪ったとある。
政権を独裁し、皇帝2人を殺したことから評判が悪いが、政治家としては有能で、宇文泰の路線を引き継いで諸制度を整備、政治を安定させるなど、北周への貢献は多大なるものがあった。
宇文護時期の政治によって、最初は劣っていた北斉との国力差が逆転することになる。
このようにただの悪者と評価することは難しく、中国のイケメン俳優を起用して、美人とのラブロマンスを絡めて彼の魅力をドラマにしたのではないだろうか。
私としては、このドラマの前半の方が、彼のおかげで魅力を感じていました。