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故宮博物院 玉冊 北宋真宗大中祥符元年 の説明と「敬天法祖」「以德配天」とは

以下は故宮博物院の北宋玉冊の説明文の和訳です。

玉冊は、古代の書写に用いられた竹簡を模した玉の冊子です。この玉冊は、北宋真宗が大中祥符元年(1008年)に泰山の近くにある社首山(現在の「蒿里山」と呼ばれています)で行われた禅礼に使用されたもので、全体で52枚の玉の嵌片があります。これらの玉の質は、昆仑山に由来し、ヘティアンの白い輝玉(ネフライト)を使用しています。玉冊は16本の長い冊子で構成されており、上下には横方向の小さな穴があり、金属線で連結することができます。正面には金泥で彫刻された228文字があり、皇帝が儀式中に朗読する祭文が書かれています。嵌片の中には40枚の玉のパネルがあり、8組に分けることができます。そのうち6組は龍の紋様と巻雲の紋様が彫刻されており、他の2組は龍と鳳凰のペアの紋様が彫刻されています。これらは玉匣の表面に貼り付けられる装飾パネルです。他にも長いまたは短い装飾パネルが10本あり、5つの溝が刻まれた2つの「玉檢」もあります。禅礼が終わると、皇帝は玉冊を玉匣に重ねて置き、金泥で塗られた綱を5回巻き付け、綱の各部分を玉檢の溝に挿入し、最後に金泥で綱の末端を封印し、「受命寶」と呼ばれる玉璽で押印します。そして、封印された玉匣は大型の方形の石で作られた箱の中に置かれ、最後に五色の土で箱が祭祀現場に埋められます。

『宋史』『宋会要』などの文献によれば、北宋太宗の太平興国年間(976-982年)には、唐玄宗の「禅地玉冊」と玉璧が

出土したため、宋太宗は封禅の儀式を行う意向を持ち、玉冊を制作しましたが、宮殿の火事で中止されました。そして、宋真宗大中祥符元年(1008年)、彼は人々に唐の冊を元の場所に埋め戻すよう命じ、その上に壇を築いて禅礼を行いました。使用される玉冊は以前の朝廷で用意されており、祝詞を追加するだけでした。

民国20年に、馬鴻逵将軍の部隊が蒿里山で爆破された基壇を清掃している時、五色の土の下に宋の冊と唐の冊が埋まっているのを発見しました。その後、馬鴻逵将軍は2つの玉冊をアメリカに持ち帰り、民国60年には馬将軍の遺言に従って夫人によって台湾に送られ、蔣公元帥によって本院の所蔵品として寄贈されました。

「天」は「民意」に基づくものであり、人間の皇帝の庇護者であり、監督者でもあります。「封禅玉冊」は、華夏文化における「敬天法祖」「以德配天」という政治哲学の具体的な表現です。歴代の皇帝が封禅に使用した玉冊は、現在では唐玄宗と宋真宗のもののみが現存しており、その中で宋の冊は真の玉で作られ、完全なセットの象眼が付いています。これは第一級の史料であり、歴史の記録の欠如を補うことができるだけでなく、本院にとっても100年間で最も重要な国宝です。

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「敬天」とは天を祭ること

「法祖」とは先祖の習慣法に従うこと

「以德配天」とは君主は徳に基づいて天と調和すること

「以德配天」とは

西周時代の神権政治の学説。

君主の権力は「天」から授けられる。

これは「天命」とも言われますが、

固定的なものではなく、徳のある者だけが天命を受け継ぐことができ

徳を失うと天命も失ってしまうという意味です。

「以德配天」を日本語に訳すと、「徳に基づいて天と調和する」といった表現になります。

西周時代の思想であるため、具体的な日本語訳は存在しません。

神権思想の発展

商代で頂点に達した神権法思想は、西周の統治者によって受け継がれ発展しました。

しかし、天から政権を与えられたと自ら言っていた夏と商は滅亡してしまいました。

そこで「以徳配天」という神権説を提唱しました。

「天」または「上帝」は特定の一族だけの神ではなく、全ての民族が共有する神である

その神から与えられた「天命(神権)」は誰のものかは、

人々を従わせる「徳」を持っているかどうかにかかっている。

統治者が「徳」を失えば、天の加護も失われ、

新たな「徳」を持つ者が現れ、その地位を取って代わる。

したがって、天下を統治する者は「以徳配天」すべきと考えました。

徳を持つにはどうしたら良いか

統治者に要求される「徳」は、主に次の三つ

天を敬うこと、

祖宗を敬うこと、

民を保護することです。

「明徳慎罰」とは

当時の法律において「明徳慎罰」という形で具体化されました。

人々を徳でもって教え導き、刑罰を慎む。

しかしこれは、なんでも許すというわけではなく、厳罰に処するべくは処する。

事情を考慮した上で刑罰を与える

商時代の何がなんでも刑罰だけを改めるということです。

 

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