台湾ドラマ「茶金」を観ていて驚いたのは、登場人物たちがシーンごとに異なる言語を使い分けていることでした。この多言語使用は、単なる演出ではなく、1950年代台湾の複雑な歴史と社会を映し出す重要な要素なのです。
ヒロイン薏心の言語使い分け
ドラマの中で、ヒロインの薏心はこのように言語を使い分けていました。
- 父親と話す時 → 客家語
- KKと話す時 → 台湾語
- 女友達と話す時 → 日本語
- 役人と話す時 → 中国語
- アメリカ人と話す時 → 英語
また、他の登場人物は上海語を話すシーンもありました。一人の人物がこれほど多くの言語を操るのは、現代の私たちからすると不思議に感じられるかもしれません。しかし、これこそが当時の台湾の現実だったのです。
台湾はもともと多言語社会
台湾は歴史的に多様な言語が共存する社会でした。
- 台湾語(閩南語) – 台湾国民の7割以上が母語とする
- 客家語 – 台湾人口の約10パーセントが使用
- 台湾原住民言語 – 16種類の言語が存在
このような多言語社会において、教育を行い、行政を統一するためには共通語としての「国語」が必要でした。
日本統治時代の「国語」=日本語
1895年、日本政府は台湾を統治下に置き、台湾各地に学校を建設しました。そこで日本語を「国語」として教育が行われたのです。
この政策により、1895年から1945年までの50年間、台湾では日本語教育が実施されました。そのため、ドラマの舞台である1950年代初頭の時点で、ある程度の教育を受けた台湾人は日本語を流暢に話すことができました。
薏心が女友達と日本語で会話するシーンは、彼女たちが日本統治時代に教育を受けた世代であることを示しています。日本語は当時の知識人や商業階級の間で共通語としても機能していたのです。
1945年、国語は一夜にして中国語へ
1945年、日本の敗戦により、台湾の「国語」は日本語から中国語に変わりました。
この変化は台湾の人々に大きな影響を与えました。台湾で日本語教育を受けていた学生たちは、一夜にして文盲同然の状態になってしまい、中国語で勉強し直さなければならなくなったのです。
1947年ごろから国民党軍の敗退により、中国大陸から台湾に逃れる外省人が増え始めました。1949年、国民党政府は正式に台湾に拠点を移します。1950年の推計では、台湾に渡ってきた公務員、軍人、民衆の総数は120万人にも達しました。
これらの外省人の多くは上海語や北京語などを話す人々で、台湾の言語環境はさらに複雑になっていきました。
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アメリカの援助と英語の重要性
1951年より、アメリカによる借款援助が始まりました。この経済支援により、台湾経済におけるアメリカの影響力が高まり、英語が重要な言語となりました。
特に以下のような人々にとって、英語は必須のスキルでした。
- 国際貿易に携わる商人
- アメリカとの取引がある茶業関係者
- 近代的なビジネスを行う人々
ドラマで薏心がアメリカ人ビジネスマンと英語で交渉するシーンは、この時代の台湾経済におけるアメリカの影響力を如実に表しています。
多言語が象徴する1950年代台湾
薏心が場面ごとに言語を使い分ける描写は、単なるリアリティの追求ではありません。それぞれの言語が持つ意味を見てみましょう。
- 客家語(家族) = アイデンティティのルーツ、自分の原点
- 台湾語(地元の人々) = 日常生活、台湾社会
- 日本語(友人) = 同世代の知識人、教養
- 中国語(政府) = 新しい支配者、公的な場
- 英語(ビジネス) = 国際経済、近代化
このように、一人の人物の言語使用を通して、1950年代台湾の複雑な社会構造が表現されているのです。
おわりに
ドラマ「茶金」における多言語の使用は、激動の時代を生きた台湾人の姿を象徴的に描いた演出です。日本統治、国民党政府の移転、アメリカの援助という歴史の波に翻弄されながらも、それぞれの言語を使いこなして生き抜いた人々の強さとしなやかさが伝わってきます。
言語の切り替えに注目しながらドラマを観ると、台湾の歴史と文化がより深く理解できるでしょう。