乾隆帝のウイグル人の妃
乾隆帝の40人以上の妃の中に、順嬪(香妃)と呼ばれたウイグル族の女性がいました。
順嬪(香妃)(1734年10月11日-1788年5月)
乾隆帝が新疆を統一した後、新疆の有力者の娘との政略結婚するために娶った女性です
もともとはイパルハンという名前でした。
順嬪(香妃)の史実
史料によると、順嬪(香妃)は乾隆25年(1760年)2月に入宮し、当時27歳だったそうです。
当時、女性は10代で嫁ぐのが普通でしたので、
テレビドラマのように、一度結婚をして子供がいたという設定になったのでしょう。
史実にはそのような記載はありません。
彼女の生活習慣と信仰心は皇帝によって尊重され、特別に大切にされました。
宮中には彼女のために特別に回族の料理人がいて、
乾隆帝は、彼女のためにウイグル風の建物を立てました。
彼女は乾隆帝の愛を獲得し、順嬪として地位と名誉は絶頂に達しました。
乾隆53年4月19日、順嬪(香妃)は54歳で亡くなりました。
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ドラマのように乾隆帝から捨てられることはありません。
順嬪はなぜ香妃と呼ばれたか
カシュガルの王女は美しい姿勢をしており、
魅惑的なボディから芳香が漂っていたという民間文献があります。
順嬪はウルグアイ人ですので、エキゾチックな容貌をしており、
体つきも東洋人とは異なっており、
トルコ風呂の風習から芳しい香りがしたのではないかと思います
それゆえ香妃と呼ばれたのでしょう
香妃の死の伝説
皇帝に召された姫は「国が敗れて、家族が死んでしまった」と皇帝の前で自殺しようとしました。
皇帝に召されるという女性にとって最高な名誉なのに自殺しようとするなど
皇帝にとっては屈辱的であったはずなのですが、
皇帝は彼女を妻にすることを諦めきれませんでした。
皇太后は、繰り返し皇帝に警告しましたが、皇帝は耳を傾けずに、彼女を後宮に入れます
皇太后は香妃を呼んで、絞首刑を与えました。
瓔珞<エイラク>における順嬪
香妃の伝説と乾隆帝を夢中にさせた順嬪とを一緒にして瓔珞のライバルを作ったようです