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嫪毐事件:始皇帝を激怒させた「假父」騒動

古代中国史上最も奇想天外なスキャンダルの一つが、秦の始皇帝時代に起きた「嫪毐事件」です。権力、愛欲、そして裏切りが絡み合ったこの事件は、中国史上でも稀に見る政治スキャンダルとして語り継がれています。

呂不韋の巧妙な策略

物語は、秦の宰相呂不韋の悩みから始まります。呂不韋は趙太后(始皇帝の母)と密通していましたが、始皇帝が成長するにつれ、この関係の危険性を痛感していました。そこで彼が目をつけたのが、特別な「能力」を持つ嫪毐という男でした。

史書によれば、嫪毐は男性としての特別な能力で知られており、なんと「ペニスを使って木製の車輪を回した」という逸話まで残されています。現代の我々には理解し難い話ですが、当時としては驚くべき能力だったようです。

呂不韋はこの嫪毐の「特殊能力」を意図的に趙太后の耳に入れました。案の定、趙太后は嫪毐を手に入れたいと強く望むようになります。

偽装去勢による宮中侵入

呂不韋は巧妙な計画を立てました。嫪毐に宮刑(去勢)を受けたふりをさせ、宦官として宮中に送り込んだのです。趙太后は宮刑を司る官吏に賄賂を渡し、嫪毐の偽装去勢に協力させました。

こうして嫪毐は、ひげを剃るだけで宦官として宮殿に入ることに成功。密かに趙太后と関係を持ち、その「能力」により趙太后の深い愛情を獲得しました。

権力の頂点へ

嫪毐と趙太后の関係は、やがて趙太后の妊娠という結果をもたらします。趙太后は妊娠を隠すため、「占いが不吉なので避ける必要がある」という口実で雍の宮殿に移住。嫪毐も同行しました。

趙太后の寵愛を受けた嫪毐の権力は急速に拡大します。長新侯に封じられ、山陽を居城とし、さらには河西の太原県を「嫪毐国」と改名するまでに至りました。彼の屋敷には数千人の使用人と千人以上の客が群がり、その影響力は宰相呂不韋に匹敵するほどでした。

運命の酒席での失言

権力の絶頂にあった嫪毐でしたが、酒が災いして破滅への道を歩むことになります。ある日の酒席で高貴な大臣と口論になった嫪毐は、酔った勢いでこう叫びました。

「私は秦王の假父(継父・養父)である!お前のような卑しい者が、私に逆らうとは何事だ!」

この言葉は即座に始皇帝の耳に入り、皇帝を激怒させました。しかし、始皇帝の怒りは単純な屈辱感だけではありませんでした。

始皇帝の複雑な「父親問題」

始皇帝の怒りの深さを理解するには、彼が抱えていた複雑な感情を考慮する必要があります。

まず、実の父である荘襄王との関係からして複雑でした。荘襄王は始皇帝よりも弟の成蟜を愛し、成蟜を皇太子にしたがっていたとされます。つまり始皇帝は、血縁上の父からも十分な愛情を受けていなかった可能性が高いのです。父の愛を求めながらも得られなかった経験は、彼の心に深い傷を残していたでしょう。

その上で、政治的には**呂不韋を「仲父」(父に等しい存在)**として扱わなければならない状況でした。呂不韋は荘襄王の即位に貢献した大恩人であり、その政治的影響力は無視できないものでした。始皇帝にとって、呂不韋への依存は必要悪でありながらも、「実の父に愛されなかった自分が、今度は他人を父として仰がねばならない」という二重の屈辱を味わっていたに違いありません。

そこへ今度は**嫪毐が「假父」**を名乗ったのです。始皇帝の心境は想像に難くありません:

  • 実の父:荘襄王(自分より弟を愛し、皇太子にしたかった父)
  • 政治的な父:呂不韋(権力上必要だが、依存せざるを得ない屈辱)
  • そして今度は:嫪毐(母の愛人が図々しく父を名乗る究極の侮辱)

「父に愛されず、他人を父と仰ぎ、さらに母の愛人までもが父を名乗るのか!」

これが始皇帝の率直な感情だったでしょう。実の父からの愛情不足、政治的依存への屈辱、そして母の愛人による最終的な侮辱—この三重の「父親問題」が重なったとき、始皇帝の怒りは爆発したのです。特に嫪毐の場合、母親を通じた血筋も政治的力もないただの愛人が「假父」を主張するという、あらゆる意味で耐え難い屈辱でした。

クーデター失敗と破滅

秦の始皇帝9年(紀元前238年)、ついに嫪毐の正体が暴露されます。彼が実は宦官ではなく、趙太后と密通して二人の子をもうけ、始皇帝亡き後にその子たちを王位に就けようと画策していることが発覚したのです。

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絶体絶命となった嫪毐は、趙太后の印璽を盗んで兵を動員し、蕲年宮でクーデターを決行。しかし始皇帝が派遣した昌平君・昌文君の軍に敗れ、一味とともに処刑されました。

始皇帝の怒りは嫪毐だけでなく、その子たちにも及びます。嫪毐と趙太后の間に生まれた二人の異父弟は袋に入れられ、投げ殺されるという残酷な最期を遂げました。

歴史の教訓

この嫪毐事件は、歴史を動かす真の力が何であるかを示す貴重な例です。一見すると古代中国の権力闘争や政治的計算の物語に見えますが、その本質は一人の人間が抱える深い感情的な傷と怒りにありました。

始皇帝の行動を冷静に分析すれば、嫪毐を処刑し、異母弟たちを殺害するという極端な報復は、政治的には必ずしも最良の選択ではなかったかもしれません。しかし人間である以上、理性的判断よりも感情の方が行動を支配することがあります。

実の父に愛されなかった幼少期の傷他人を父として仰がねばならない屈辱母の愛人による最終的な侮辱—これらの感情的な積み重ねが、始皇帝の激怒と残酷な報復を生み出したのです。

歴史書は往々にして政治的な要因や戦略的判断に注目しがちですが、実際には人間の感情—嫉妬、屈辱、怒り、愛情への渇望—こそが歴史の大きな転換点を作り出すことが多いのではないでしょうか。始皇帝という絶対権力者でさえ、一人の息子として父親への複雑な感情に支配されていたのです。

この事件の後、始皇帝は呂不韋の影響力も削ぎ、真の独立を果たします。それは合理的な政治判断というよりも、「もう誰も父とは呼ばない」という感情的な決意の表れだったのかもしれません。

始皇帝のその後の人生への影響

興味深いことに、この「父親問題」は始皇帝のその後の統治スタイルや私生活にも深い影響を与えたと考えられます。

嫪毐事件を通じて形成された始皇帝の行動パターンは、以下の3つの特徴として現れました:

• 誰も信頼しない(裏切られることへの恐怖)

幼少期から父親に愛されず、頼るべき人物(呂不韋、嫪毐)が次々と裏切り者となった経験から、始皇帝は基本的な人間不信に陥りました。側近や将軍でさえ、常に疑いの目で見るようになったのです。

• 権力を分散させない(依存することへの拒絶)

他人に依存することで傷つけられた経験から、始皇帝はすべてを自分でコントロールしようとしました。極端な中央集権化と、反対者への容赦ない弾圧は、この心理の表れだったのでしょう。

• 感情的な結びつきを避ける(傷つくことへの防御)

愛情や信頼関係が必ず政治的混乱と個人的屈辱をもたらすという苦い学習から、始皇帝は深い人間関係を避けるようになりました。

私生活における影響:

歴史上、始皇帝には多くの妃がいたにも関わらず、特定の寵妃についての記録がほとんど残されていません。これは他の皇帝と比べて極めて異例です。

母親(趙太后)が呂不韋や嫪毐といった男性と深い関係を持ち、それが政治的混乱と個人的屈辱をもたらした経験から、始皇帝は女性との深い感情的関係を危険なものとして回避するようになったのかもしれません。

彼にとって、女性との関係は子孫を残すための政治的・生物学的機能に留め、深い愛情や信頼関係は避けるべき対象だったのでしょう。母親を通じた苦い学習体験が、始皇帝を感情的に孤立させたのです。

さらに、始皇帝の有名な不老不死への執着も、この心理状態と無関係ではないかもしれません。

「永遠に生きれば、誰にも依存せず、誰にも裏切られることなく、完全にコントロールできる」という究極の孤立願望の表れとも読めるのです。

人間の心の奥底にある感情こそが、時として歴史を大きく動かす原動力となる—

嫪毐事件は、そんな人間の本質を浮き彫りにし、一人の皇帝の統治スタイルや人生全体を決定づけた歴史の一幕と思います。

歴史上最も強大な権力を手にした始皇帝でしたが、実際には最も深い孤独と恐怖を抱えた人間だったのかもしれません。

彼の偉大な業績—万里の長城、兵馬俑、文字の統一—の陰には、愛されることへの渇望と、裏切られることへの深い恐怖が隠されていたのではないかと思います。

 

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