事実関係の整理
1931年11月10日夜、溥儀は天津を脱出し、13日に営口に到着。その後満州国へ向かいました。溥儀の出発から16日後の11月26日、婉容の脱出作戦が実行されました。
脱出計画の関係者
– 計画立案:天津駐屯軍翻訳官 吉田忠太郎
– 随行員:
– 川島芳子
– 吉田忠太郎夫人
– 婉容の兄
– 宦官
– 侍女
– 日本軍大佐
決断の瞬間
溥儀が去って約10日後、婉容のもとに溥儀直筆の手紙が届けられました。その時、婉容に謁見したのは日本人と男装した川島美子でした。
李国雄の証言
李国雄の手記によれば、婉容は以下のように述べたとされています:
「川島芳子は、溥儀が私に来るようにと言っていると伝えに来ました。私は行かなくてはなりません」
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脱出の様子
婉容は溥儀の側近が運転する小型スポーツカーの後部ボックスに自ら飛び込み、静園を脱出しました。李国雄の記録には「さっと跳ね上がって車の後ろのボックスに飛び込んだ」とあり、これは婉容の積極的な意思を示す重要な証言といえます。
歴史解釈の問題
ウィキペディアでは、婉容は皇后の身分にも夫の元へも戻る意思がなく、関東軍の命を受けた金璧輝(川島芳子)の嘘に騙されて連れ出されたとされています。しかし、紫禁城から満州国、そしてソ連抑留時代、戦犯管理所まで溥儀に同行した側近である李国雄の証言は、婉容が自らの意思で天津を脱出したことを示唆しています。
このような証言の違いは、歴史的事実の解釈の難しさを示すとともに、当時の複雑な政治状況を反映しているのかもしれません。李国雄という直接の目撃者の証言は、歴史的事実を理解する上で重要な資料となっています。