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嵯峨浩を救った日本人たちーー名もなき人々と、名のある一人

嵯峨浩(さが ひろ、1914―1987)は、清朝最後の皇帝・溥儀の弟、溥傑に嫁いだ日本人女性である。その結婚が、関東軍の「日本の血を皇位に」という長期計画の一環であったことは、別稿「満洲国の闇――傀儡皇帝・溥儀はなぜ選ばれたのか」で詳しく書いた。

本稿は、その後日談である。満洲国が崩れ、彼女を駒として動かした担ぎ手たちがいなくなったのち――いったい誰が、嵯峨浩を救ったのか。その問いを追ってみたい。

六千キロの逃避行

1944年(昭和19年)12月、浩は学習院初等科に通う長女・慧生を日本に残し、新京へ戻った。次女・嫮生は、まだ幼かった。

翌1945年(昭和20年)8月、ソ連の対日参戦によって新京は攻められ、浩は脱出する。溥傑は溥儀の亡命飛行機に同乗し、浩は嫮生を連れて陸路で朝鮮を目指し、そこから海路で日本へ帰る――そういう手筈であった。終戦は、朝鮮との国境近くで迎えた。

しかし溥儀と溥傑は途中でソ連軍に拘束され、浩たちのいた場所も危険になったため、臨江へ逃れた。1946年(昭和21年)1月、今度は八路軍の手によって通化の八路軍公安局へ連行される。以降、長春(満洲国時代の新京)・吉林・延吉・佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、7月、佳木斯でようやく釈放された。

釈放後、9月に葫芦島へ至り、日本への引揚船を待った。だがそこで今度は国民党軍に身柄を拘束され、北平を経由して、12月に上海へと移される。

氷点下三十度にもなる大地を、一年五か月、六千キロにわたって彷徨ったという。その流転の途上、浩は幼い嫮生を、片時も離さず伴っていた。

日本はとうに敗れ、満洲国も消えていた。もはや浩を「日満親善の象徴」として担ぐ理由は、どこにもなくなっていた。

## 名もなき婦人たちの犠牲

流転の途上、浩は幾度も、ソ連兵の暴力の危険にさらされた。ソ連の満洲侵攻のあと、避難民の女性たちは至るところで陵辱の的とされ、数えきれない悲劇が起きていた。皇弟の妃であった浩も、その例外ではなかった。

そして、伝えられるところによれば――浩が連れ去られようとしたそのとき、彼女と幼い嫮生を救ったのは、名もない日本人の婦人たちであった。同じ避難民の女性たちが、自ら進んで浩母娘の身代わりとなり、その身をソ連兵に差し出したのである。誰一人、名を残してはいない。語り継がれることも、報われることもなかった、無名の女たちであった。浩はその犠牲の上に生かされ、娘とともに生き延びた。

**【さとえの見立て】**

ここで、私は神輿論のもう一つの顔に気づかされる。歴史が顔を奪うのは、悪事を企てた担ぎ手だけではない。最も尊い犠牲を払った者からも、歴史は等しく名を奪うのだ。浩の縁談を陰で操った者の名がわからないのと同じように、浩の身代わりとなって散った女たちの名も、ついにわからない。顔のなさ、名のなさは、悪の側にも、聖の側にも、同じように降りかかる。神輿の論理のいちばん残酷なところは、ここにあるのかもしれない。人を駒にした者も、人のために死んだ者も、まとめて無名のうちに葬り去ってしまうのである。

## 田中徹雄という一人の男

それでも、彼女を救おうとした、もう一人の日本人がいた。こちらは、名が残っている。田中徹雄、元陸軍大尉である。

田中は終戦後、軍人・民間人を問わず中国に取り残された在留邦人を日本へ送還する仕事に、自ら志願した。流暢な中国語、豊富な情報量、深い中国への愛、そして長年つちかった中国人との人脈――その一切を、同胞の帰国のために役立てようと考えたのである。1946年の春ごろから、彼は上海連絡班に身を置いて、その任にあたっていた。

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その年の十二月、田中は一つの報せを受け取る。旧松井公館に往診に入った岡田某という医師から、「濱口幹子」と名乗る日本人女性が娘を連れて館内に拘束されている、というのである。調べてみると――その「濱口幹子」こそ、満洲国皇弟・溥傑の夫人、嵯峨浩であった。濱口は浩の母の旧姓、幹子は末の妹の名。浩は、自らの素性を隠すため、母方の名を借りて生きていたのである。

浩は、中国国民党軍に戦犯として逮捕されていた。満洲国とのかかわり、そして日本人であること――その二点だけを理由に、彼女の死刑はすでに決まっていたという。

「何が何でも助けねば」。田中は、たった一人で救出を決行することを決意する。在留日本人の送還の最終期限は、十二月二十八日。この一便を逃せば、母娘は二度と日本の土を踏めない。田中は、その前夜――二十七日の夜に賭けた。

十二月二十七日、田中は単身、自動車を駆って旧松井公館へ向かった。表は警備が厳重だが、裏手は手薄である。下調べのとおり、彼は裏のすすき野の中に車を停めた。そして中国服に身をやつし、厳重な警備の目を縫って館内に忍び入り、軟禁されていた母娘の部屋にたどり着く。「私を信用してついてきてください。ここさえ脱出できれば、あとはどうにかなります」――そう告げると、浩に毛布をかぶせ、裏口から連れ出して車に乗せた。

公館を出るとき、気づいた中国兵が発砲した。だが田中は車をフルスピードで走らせ、いくつもの関門と兵の詰所を突破して、闇の中を逃げ切った。連絡班の仲間数人と連携して母娘をある住居に匿い、翌二十八日、上海発・最後の引揚船に三人で乗り込む。船は年を越え、1947年(昭和22年)1月4日、佐世保に着いた。

田中はそこで召集を解かれたが、母娘をそのまま放りはしなかった。彼は浩と嫮生を、横浜・日吉の嵯峨家の門前まで、自分の手で送り届けたのである。

(この救出の経緯は、地元紙〈山梨新報〉の記事、および田中氏の知人のご息女の証言による。)

**【さとえの見立て】**

田中の名が残ったことを思うとき、私はあの名もなき婦人たちのことを、もう一度考えずにいられない。浩のために身を差し出した女たちは、田中よりもなお多くを――その身を、おそらくは命さえ――捧げながら、一人として名を残さなかった。田中の名が記録に残ったのは、彼が偉かったからというより、たまたま記録される側にいたからにすぎないのかもしれない。歴史は、最も多くを与えた者ほど、無名のうちに葬る。田中という一つの名は、その背後に沈んでいる無数の名なき善意の、かろうじて浮かび上がった一点なのだと思う。

## その後――再会と別れ

帰国した浩は、嫮生とともに日本で暮らした。夫・溥傑とは、引き裂かれたままであった。

転機は1954年(昭和29年)に訪れる。日本に残されていた長女・慧生が、中華人民共和国国務院総理・周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で手紙を書いた。この一通がきっかけとなって、浩と溥傑の文通が認められるようになる。

1960年(昭和35年)、撫順戦犯管理所にあった溥傑が釈放された。翌1961年(昭和36年)、浩は中国へ渡り、十五年ぶりに溥傑と再会する。以後、二人は北京で暮らした。だが平穏は長くは続かず、まもなく始まった文化大革命のさなか、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われている。

それでも浩は中国にとどまり続け、1987年(昭和62年)6月20日、北京で世を去った。政略から始まった結婚は、半世紀をかけて、二人が同じ土地で添い遂げる結末へとたどり着いたのである。

(本稿は「さとえの見立て」を含みます。史実との区別にご注意のうえお読みください。)

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