如懿伝で人気の海貴人、実在した愉貴妃とは?
中国宮廷ドラマ「如懿伝」で如懿の親友として描かれた海貴人。そのモデルとなった愉貴妃(ゆきひ)は、乾隆帝の後宮で79歳という異例の長寿を全うした女性です。
47年間同じ地位にとどまりながら、死後に最高位の一つ「貴妃」まで昇格した彼女の人生には、現代にも通じる生き抜く知恵が隠されていました。
【出自】罪人の娘から皇帝の側室へ
愉貴妃はモンゴル出身。先祖が呉三桂の反乱に巻き込まれ、一族は**辛者库(罪人の身分)**に落とされました。
父は5等級内務大臣という低い地位。そんな彼女が雍正帝時代に宮中に入り、当時皇子だった乾隆帝の邸で宮女として働き始めます。
配属先は刺繍工房。この経験が、後に彼女の運命を変えることになるのです。
【スキャンダル】皇帝の弟が間違えて部屋に…
俗説によると、ある夜酒に酔った乾隆帝の弟が間違って海常在(当時)の部屋に入ってしまいます。
通常なら皇子の側室になるはずが、皇子は「何もしていない」と拒否。
笑い物になった彼女を乾隆帝が引き受け、「海常在」として後宮に迎え入れたのです。
家柄の低さとスキャンダルから、後宮の貴婦人たちからいじめを受ける日々。唯一味方してくれたのが如懿でした。
【転機】刺繍の知識で皇帝の心を掴む
転機は皇太后への贈り物の刺繍で訪れます。
誰もが悩む難しい刺繍に、宮女時代に刺繍工房で培った専門知識を活かして的確なアドバイスを提供。
視察に訪れた乾隆帝の目に留まり、これをきっかけに寵愛を受けるようになりました。
キャリアは決して無駄にならない―彼女の人生が証明しています。
【出世】五皇子・永琪の母として地位向上
- 乾隆6年(1741年):五皇子・永琪を出産し「愉嫔」に昇格、永和宮を賜る
- 乾隆10年(1745年):「愉妃」に昇格
- 乾隆31年(1766年):愛する永琪が25歳で急逝
永琪は文武両道で乾隆帝から深く愛された皇子でした。その死後、愉妃は残りの人生を喪に服して過ごします。
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【生き方】「佛系天花板」とは?争わない哲学
愉妃の性格は**「佛系天花板」**と表現されます。
これは困難に直面しても心の平静を保ち、出世欲がなく争いを避ける姿勢を指す言葉。
満州語での称号「nemgiyen(ネムギエン)」も「穏やかな」という意味で、彼女の人柄を物語っています。
愉妃の3つの生き方の原則
- 争わず、奪わず
- 長期的視点を持つ
- 味方を大切にする
記録によると、穏やかな性格のため47年間、昇格も降格もなく妃の地位を保ち続けたとあります。
【謎】なぜ死後に「貴妃」へ?最期の真実
最も興味深いのは、47年間出世しなかった愉妃が最晩年に乾隆帝の訪問を受け、79歳で死去した後に**「愉貴妃」に追贈された**こと。
清朝で死後に貴妃に任命されたのは数少ない例です。
この突然の乾隆帝の注目はなぜでしょう。
諸説ある理由
- 長年の忠誠心への報い説
- 誰か重要な人物の弱みを握っていて交渉材料としていた説
- 「如懿のため」という大義名分で敵を作らず立ち回ったけど実は他人の争いに乗じて自分の目的は達成していた説
表面的には争いを避けながらも、実は計算高く立ち回っていた可能性も指摘されています。
【現代への教訓】愉貴妃から学ぶ5つのこと
1. 今の仕事を懸命にこなす重要性
宮女時代の刺繍経験が後の人生を変えました
2. 争わないことも戦略
激しい競争で消耗するより、長期的成功を目指す
3. 本当の味方を大切にする
如懿との友情が心の支えに
4. 穏やかさは最強の武器
感情的にならず冷静に判断する力
5. キャリアは予想外に活きる
どんな経験も無駄にならない
まとめ:後宮で最も長生きした女性の知恵
愉貴妃は乾隆帝の後宮で最も長生きした妃として、79年の人生を全うしました。
「争わず、奪わず」の哲学は、時として最も効果的な生存戦略となり得ます。
彼女の人生は、華やかな宮廷の裏で繰り広げられる権力闘争の中で、いかに自分らしさを保ちながら生き抜くかを私たちに教えてくれています。