如懿(1718-1766)は、乾隆帝の第二皇后で、若年期は寵愛を受けなかったが、
中年期に一時的に寵愛を受け、子供も産んだが、結局は断髪事件によって退位させられた。
如懿の3人の子供
皇帝の12番目の息子、永璂
長男として生まれた永璂は、母如意が皇后、父乾隆帝が期待を寄せるなど、生まれた当時は高く評価されていた。
しかし、両親の関係が悪化したため、次第に乾隆帝に疎まれるようになった。
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モンゴルとの結婚を決められて、皇位継承の可能性がなくなった
永璂は13歳、母親の断髪事件
その後、20歳で『帝國満蒙文銭』大綱の編纂を担当。
大業をなしとげたが、
乾隆帝より、不明確な点が多いとののしられ、
「あなたは本を作ったが、この事業を継続することは困難である」という勅令を出され
最終的に24歳で亡くなった。
皇帝の五女。
第五王女は生まれつき病弱で、6歳までしか生きられなかった。
第13皇子永璟。
2歳ごろ亡くなった
断髪何が悪いのか
1765年に乾隆帝とともに南巡した際に起きた断髪は、
満州文化において夫や両親への呪いを象徴する行為であった
脱髪は満州の伝統ではタブーであり、乾隆は皇帝の威厳を損なう公の呪いと考えた
断髪の理由
乾隆の長い時期にわたる冷淡な態度
長期にわたる感情の抑圧
息子の永璂がモンゴルとの結婚を斡旋され、皇位継承の可能性がなくなり、絶望した
宮廷闘争:令妃との対立、容妃(香妃原型)が画策した「東珠盗難事件」
一見すると無蓋のように見えた香妃は実は、東珠と手紙が如懿によって盗まれたと乾隆帝に直訴
香妃にぞっこんだった乾隆帝は如懿の部屋を捜索させた
事件の結果と歴史的評価
断髪の後、如懿は、蟄居させられ、死後も皇后としての埋葬はされなかった。
中国テレビによれば、どこかの皇女の墓に居候のような形で粗末な棺に収められていたとのこと
清朝唯一の諡号のない皇后となった。
如懿の肖像画なども消された
乾隆は意図的にその歴史の痕跡、如懿の存在を消そうと躍起になったが
逆に後世の人々にこの悲劇をより注目させることになった。
学者の多くは、この悲劇を封建的な皇帝権力の抑圧下における抵抗の象徴とみなしている。