※ドラマで詠まれた李白「清平調」の悲恋(→「[第3皇子と瑛貴人(清平調)]」)の、その第3皇子(弘時)と母・斉妃の“実像”編です。ドラマは二人を愚かに描きましたが、史実はまったく違いました。
斉妃と三皇子・弘時の実像——ドラマが「愚か」に描いた母子
ドラマの描写は、本当か
人気ドラマ『宮廷の諍い女(甄嬛伝)』で、斉妃は「頭が悪く、年老いてなお皇帝の前で若い娘のようなピンクの服を着る」女性として、息子の第三皇子・弘時は「愚か」な皇子として描かれました。
しかし史実を紐解くと、そこには絶対君主制に翻弄された、聡明な母子の壮絶な悲劇が隠されています。
美貌の妃に訪れた、栄光と転落
雍正帝の即位当初、斉妃は皇后と年貴妃に次ぐ高い地位にありました(その封号「斉」は、満洲語で「美しい」を意味するとも言われます——※この語義は一説)。名のとおりの美貌で、寵愛を受けていたのです。
斉妃が産んだ子どもたち——皇女(詳細不明)、皇子・弘昐(3歳で夭折)、皇子・弘昀(11歳で夭折)、そして皇子・弘時(唯一成人)。立て続けの出産と、度重なる喪失。
やがて斉妃の容貌は衰え、寵愛も失われていきました。
三皇子・弘時の「本当の罪」
唯一成人した三皇子・弘時。実は彼は、決して愚かではありませんでした。むしろ、まっすぐな性格で、人望があったと伝えられます。
では、弘時が犯した「罪」とは何だったのか。それは——父・雍正帝の政敵(康熙帝の第八皇子・胤禩ら)に慈悲を願ったこと。
そして、父が兄弟を次々に粛清していくやり方に異を唱え、絶対的な君主独裁ではなく、より開かれた合議のあり方を求めた、とされること(※「合議制を主張した」は一つの解釈で、確証は分かれます)。
いずれにせよ、父の絶対権力のあり方そのものに異を唱えた——その政治的な姿勢の違いが、悲劇を決定的なものにしました。
雍正四年——同じ年に、三つのことが起きている
処分の日付を並べると、この事件の本当の冷たさが見えてきます。
- 雍正四年正月——第八皇子・允禩、黄帯子を革められ、宗籍から除名。名を「阿其那」と改めさせられる
- 雍正四年二月十八日——**弘時、「允禩の子とせよ」と命じられる。**宗室から除かれ、第十二皇子・允祹に預けられる
- 同じ雍正四年——允禩の妻・郭絡羅氏、離縁を命じられ、死を賜る。さらに遺骨を砕いて撒くよう命じられる(→「[八福晋・郭絡羅氏]」)
つまり弘時は、「政敵の養子にされた」のではありません。
すでに解体されつつある家に、息子として差し出されたのです。名前を奪われた男の子とされ、その家の妻は同じ年に消されている。行き先として用意されたのは、もはや家ですらないものでした。
雍正帝はこの一年のうちに、弟の名を奪い、弟の妻を存在ごと消し、そして自分の息子をその弟の子にしています。一続きの処分として見ると、この処置の意味が変わってきます。
玉牒に残された、一つの字
そして弘時は、雍正五年(1727年)八月六日、二十四歳で死去します。
『愛新覚羅宗譜』の記載を見ると、彼の死は「卒」と記されています。
これは軽い字ではありません。皇帝の死には「崩」、王侯の死には「薨」、そして**爵位を持たない者の死に「卒」**を用いるのが決まりです。
弘時は皇子でありながら、生涯ただの一度も爵位を与えられませんでした。『清史稿』にも「弘時、雍正五年、放縦不謹をもって宗籍を削られ、封なし」とあります。
系譜のたった一字が、彼の扱いを物語っています。
なお、この死を実質的な処断——賜死とみる説は、清史館協修を務めた唐邦治が『清皇室四譜』(1923年)で提起したものです。同時代の記録に明記されているわけではなく、近代の史家による推定である点は、押さえておきたいところです。
息子を奪われた、母の沈黙
斉妃は、何も言えませんでした。ただ沈黙するしかなかった。絶対君主の前では、母であっても無力だったのです。
死後も続いた、屈辱
乾隆二年(1737年)、斉妃は世を去ります。しかしその葬儀は、「妃」の位にふさわしいものより、格段に低い仕様で執り行われたと伝わります。
歴史が隠した真実——弘時は愚かだったのではなく、聡明すぎたゆえに、乾隆帝(弘暦)の皇位継承の障害とみなされたのかもしれません。
年長の弘時が健在であれば、弟・弘暦(乾隆)の即位への、最大のライバルになりえたからです。弘時を退けたことが、結果として弘暦の道を開いた——そう読むこともできます。
(なお乾隆帝は即位後、雍正十三年十月に弘時の宗籍を回復させています。一方で公式には弘時を「年少無知で放縦」と記しており、その評価は、自らの即位の正当化という色合いを帯びていた可能性があります。乾隆帝その人については「[乾隆帝——名君か暗君か]」へ。)
声を奪われた者たちの物語
斉妃と弘時の物語は、二つのことを、静かに語っています。
ひとつは、絶対権力に異を唱えた者の末路。
弘時が、父の独裁のあり方に異を唱えて潰されたことは、のちに体制そのものを変えようとして西太后に砕かれた光緒帝や戊戌六君子(→「[清朝はなぜ滅んだのか(補論)]」)と、同じ構図です。
清朝は、その始まりから終わりまで、「変えようとする者」を許さなかった。
もうひとつは、**声を奪われた女性の悲しみ。**息子を政敵に引き渡されても、母であるはずの斉妃は、ひと言も発せなかった。
後宮の花園で咲かされ、寵を失えば忘れられ、子の死すら止められない——「[紅顔劫]」が歌った、紅顔の劫が、ここにもありました。
ドラマは、この聡明で誇り高い母子を、「愚かな二人」に作り変えました。けれど史実の斉妃と弘時は、権力の非情さと、その陰で声を奪われた人々の悲しみを、何より雄弁に物語っているのです。
【さとえの見立て】——二度書き換えられた母子
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
「歴史は勝者が書く」といいます。弘時の場合、それが二度起きました。
そして二度とも、書いたのは同じ側でした。
なぜ書き換える必要があったのか
雍正帝の息子のうち、成人したのは四人だけです。弘時、弘暦(乾隆帝)、弘昼、そして雍正十一年生まれの弘曕。末子は年が離れすぎており、実質的には弘時と弘暦の二択でした。
そして弘時は、兄です。年長で、すでに妻子もいた。嫡長子相続の考え方からすれば、本来は彼が筆頭候補になるはずでした。
この兄が有能であっては困るのです。
有能な兄がいたことにすると、乾隆帝の即位は「最も優れた者が選ばれた」という話ではなくなってしまいます。弘時は、愚かでなければならなかった。
一度目——史書
乾隆朝の公式記録は、弘時をこう記します。「放縦不謹」。
ここで立ち止まっておきたいと思います。この四字は、実は「愚か」とは言っていません。放縦は奔放で自制しないこと、不謹は慎重さを欠くこと。能力の評価ではなく、振る舞いが抑制的でないという評です。
そして、その中身は書かれていません。
思い出してください。彼が実際にしたのは、父が兄弟を次々に粛清していくのに対して、八爺党に慈悲を願ったことでした。絶対君主の側から見れば、それはまさに「放縦不謹」と表現される類のものでしょう。
つまり同じ四字から、「愚かな息子」を読み取ることも、「黙っていられない性格の息子」を読み取ることもできます。
どちらも解釈です。そして、確かめる術はありません。
**確かめる術がないこと自体が、この事件の結果なのだと思います。**彼を弁護する材料は残されませんでした。残す必要のある人が、誰もいなかったからです。
二度目——ドラマ
そして三百年後、『甄嬛伝』の主人公・甄嬛のモデルは、孝聖憲皇后——乾隆帝の生母です。
つまりあの物語は、勝者の母を主人公に据えた物語です。
主人公の息子が皇帝になる話である以上、その座を争いえた者は退場しなければなりません。弘時は愚かに、母の斉妃は滑稽に描かれました。乾隆朝の史書がしたことを、ドラマがもう一度なぞっている。
しかも視聴者は、それを「甄嬛の物語」として受け取ります。書き換えが起きたことに、気づきようがありません。
そして、この構図に気づくと、対の記事で書いた瑛貴人の死も違って見えてきます(→「[第3皇子と瑛貴人(清平調)]」)。
彼女は「皇子を唆した」という濡れ衣で死にました。けれど物語の設計から見れば、あの死が果たした役割は、弘時を失脚させることです。弘時が消えれば、甄嬛の子の道が開く。
瑛貴人もまた、主人公の息子が即位するために配置された犠牲者でした。
そして
乾隆帝は即位後、弘時の宗籍を回復させています。それは兄への情だったのかもしれません。
けれど同時に、公式の評価は「年少無知で放縦」のまま残しました。名前は戻したが、人物像は戻さなかったのです。
——史書もドラマも、勝った側から書かれている。
だから私は、負けた側から書いてみたいと思うのです。
◀ 対の記事:[第3皇子と瑛貴人(清平調)] | [八福晋・郭絡羅氏] | [八賢王はなぜ負けたのか]
◀ 関連:[乾隆帝——名君か暗君か] | [紅顔劫] | [甄嬛のモデル]・[果郡王允礼の実像]
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