同じ名前、違う時代、異なる運命
「孟嬴」という名前を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
中国ドラマ『ミーユエ』に登場する戦国時代の孟嬴?
実は、それより約200年前にも「孟嬴」という名の秦の公主がいたんです。
しかも、こちらの孟嬴の人生は、ドラマ以上に波乱万丈で悲劇的でした。
今回は、春秋時代の孟嬴公主の壮絶な生涯を紐解きます。
二人の「孟嬴」を整理しよう
📅 春秋時代の孟嬴(本記事の主人公)
- 時代: 春秋時代末期(紀元前6世紀)
- 兄: 秦の哀公(在位:紀元前536-501年)
- 結婚: 楚の平王の妃
- 息子: 楚の昭王
📅 戦国時代の孟嬴(『ミーユエ』)
- 時代: 戦国時代(紀元前4世紀)
- 父: 秦の恵文王
- 結婚: 燕の太子(後の燕易王)
- 息子: 燕昭王
約200年の時代差があります!
悲劇の始まり:奪われた花嫁
本来の政略結婚
紀元前526年、楚と秦の友好同盟を固めるため、一つの婚姻が計画されました。
- 花嫁: 秦の孟嬴公主
- 花婿: 楚の皇太子建(太子建)
- 目的: 秦楚同盟の強化
孟嬴は秦から楚へと嫁ぐため、長い旅路を経て楚の都に到着しました。
運命を変えた「美貌」
ところが、ここで悲劇が始まります。
楚の平王は生来の好色家として知られていました。
息子の花嫁として楚にやってきた孟嬴の美貌を耳にするや、平王は彼女を自分のものにしたいと願ったのです。
奸臣・費無忌の進言
平王の寵臣・費無忌は、主君の欲望を見抜き、こう進言しました。
「陛下が孟嬴を慕っておられるなら、孟嬴を娶ってみてはいかがでしょうか」
そして、ある計画が立てられました。
卑劣な計略:「礼」という名の誘拐
でっち上げられた口実
費無忌と平王は、こんな口実を作り上げました。
「花嫁がまず義理の両親に礼を言う」
当時の習慣として、この口実は一見もっともらしく聞こえました。
何も知らない孟嬴は、礼儀正しく楚の宮廷に入りました。
そして…
平王は孟嬴を自分の妃としてしまったのです。
- ❌ 息子の花嫁として来た女性を
- ❌ 秦との約束を破り
- ❌ 父として、君主として、人としての道を踏み外した
犠牲者たち:平王の暴走がもたらしたもの
太子建の追放
発覚を恐れた費無忌と平王は、さらなる策を弄します。
太子建を都から追放し、成府(辺境)の警護に当たらせたのです。
理由はでっち上げ。息子を遠ざけ、自分の罪を隠そうとしたのです。
忠臣・伍奢の処刑
太子建の傅(教育係)だった伍奢は、この不義を諫めました。
しかし、平王は聞く耳を持ちませんでした。
それどころか、伍奢とその長男・伍尚を処刑してしまいます。
伍子胥の逃亡
伍奢の次男・伍子胥は、辛くも呉へと逃れました。
父と兄を殺された彼は、復讐の鬼と化します。
これが後の「楚呉戦争」の火種となるのです。
孟嬴の新しい運命
楚の昭王の誕生
紀元前511年、孟嬴は平王との間に男児を産みました。
この子が後の楚の昭王です。
太子建の殺害計画
紀元前522年、平王は太子建を殺害しようとします。
『史記』秦本紀によると:
- 太子建は鄭に逃亡
- 伍子胥は呉に逃げた
太子建がいなくなったことで、孟嬴の息子が皇太子となりました。
秦の哀公の心境
本来は太子建に嫁ぐはずだった妹・孟嬴が、楚の平王の女性になってしまった。
秦の哀公(孟嬴の兄)はどんな気持ちだったのでしょうか?
史料には明確な記録がありませんが、後年の行動から推測できます。
伍子胥の復讐:呉軍による楚征伐
紀元前506年の悲劇
呉に逃れた伍子胥は、呉王に仕え、ついに復讐の機会を得ます。
伍子胥は呉軍を率いて楚に侵攻しました。
- 🔥 楚の都は陥落
- 👑 楚の昭王は逃亡
- 👸 孟嬴は捕らえられた
「その場で血を流す」:貞操を守った孟嬴
呉の王は孟嬴を捕らえようとしました。
しかし、孟嬴は剣を手に取り、こう脅しました。
「近づくなら、その場で血を流す」
孟嬴は剣で身を守り、貞操を守り通しました。
すでに二度も運命に翻弄された彼女は、最後の尊厳だけは自分の手で守ったのです。
秦の哀公の決断:妹のための援軍
楚の絶体絶命
呉軍に追い詰められた楚は、秦に援軍を求めました。
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しかし、秦の哀公はすぐには決断しませんでした。
理由は明らかではありませんが、おそらく:
- 妹・孟嬴を奪われた恨み
- 楚が秦との約束を破った怒り
- 平王の不義への嫌悪感
苦々しい思いがあったのでしょう。
申包胥の必死の訴え
楚の使者・申包胥は、秦の宮廷で7日間に渡り、一滴の水も口にせず、哭声を上げて涙を流し続けました。
この情に訴える行動に、ついに秦の哀公は動きます。
決断
秦の哀公は楚への援軍を決断しました。
個人的な恨みよりも:
- 妹・孟嬴の身の安全
- 秦楚同盟の大義
- 呉の勢力拡大への懸念
これらを優先したのです。
秦は楚とともに呉を破りました。
楚太后としての晩年
平王の崩御
紀元前516年、楚の平王が崩御しました。
楚太后・孟嬴
彼女の息子が即位し、孟嬴は楚太后となりました。
- 本来の花婿だった太子建は死に
- 平王も死に
- 息子が楚王となった
孟嬴は政治の表舞台に立つことになりました。
晩年の記録
残念ながら、楚太后としての孟嬴の具体的な活動や晩年については、詳しい記録が残っていません。
しかし、彼女の生涯を考えれば:
- 秦と楚の架け橋として
- 息子・昭王を支える母として
- 数々の苦難を乗り越えた女性として
静かに、しかし強く生きたのではないでしょうか。
美貌が招いた不幸:孟嬴の生涯を振り返る
彼女の人生のターニングポイント
- 秦の公主として生まれる → 政略結婚の駒としての宿命
- 楚の太子建の花嫁として出発 → 本来の運命
- 平王に奪われる → 第一の悲劇
- 平王の妃となる → 望まぬ結婚
- 昭王を産む → 新たな役割
- 呉軍に捕らえられる → 第二の悲劇
- 貞操を守り通す → 最後の尊厳
- 楚太后となる → 政治の表舞台へ
美貌という呪い
孟嬴の美貌は:
- ✅ 楚の平王を魅了した
- ❌ 本来の運命を奪われた
- ❌ 太子建を追放させた
- ❌ 伍奢父子の死を招いた
- ❌ 伍子胥の復讐を引き起こした
- ❌ 秦楚関係を悪化させた
美貌は彼女にとって、祝福ではなく呪いだったのかもしれません。
歴史が教えるもの:権力者の欲望と犠牲者たち
平王の罪
楚の平王は、一人の欲望のために:
- 国家間の約束を破った
- 息子を追放した
- 忠臣を殺した
- 復讐の連鎖を生み出した
そして最終的には、楚という国を危機に陥れました。
孟嬴の強さ
一方、孟嬴は:
- 自分の意志とは関係なく運命に翻弄されながらも
- 最後の尊厳だけは守り通し
- 息子を楚王に育て上げ
- 楚太后として国を支えた
彼女の強さは、時代を超えて私たちに何かを語りかけます。
春秋時代と戦国時代:二人の「孟嬴」比較
共通点
- ✅ どちらも秦の公主
- ✅ どちらも政略結婚の駒
- ✅ どちらも「婚姻という戦場」に赴いた
- ✅ どちらも息子が名君となった
相違点
| 項目 | 春秋時代の孟嬴 | 戦国時代の孟嬴 |
|---|---|---|
| 父 | 秦の哀公 | 秦の恵文王 |
| 本来の花婿 | 楚の太子建 | 燕の太子 |
| 実際の夫 | 楚の平王(父王が奪った) | 燕の太子(予定通り) |
| 息子 | 楚の昭王 | 燕昭王 |
| 悲劇 | 花嫁を奪われる | 父の国と息子の国の対立 |
まとめ:名前は同じでも、運命は違う
「孟嬴」という名前を持つ二人の秦の公主。
約200年の時を隔てて、どちらも政略結婚という運命に翻弄されました。
春秋時代の孟嬴
- 美貌ゆえに義父に奪われ
- 望まぬ結婚を強いられ
- 戦乱に巻き込まれながらも
- 最後の尊厳を守り通し
- 楚太后として息子を支えた
戦国時代の孟嬴
- 燕の太子と結婚し
- 父の国と息子の国の間で苦しみながらも
- 燕昭王の母として国を支えた
どちらの孟嬴も、時代の波に翻弄されながら、強く生きた女性でした。
中国ドラマを見るときも、歴史書を読むときも、「孟嬴」という名前が出てきたら:
- どの時代の孟嬴なのか?
- 秦のどの君主の娘(または妹)なのか?
- どこの国に嫁いだのか?
これらを確認すると、混乱せずに楽しめますよ!



