「所謂伊人、在水一方(想い人は、水の向こうに)」――この一節を、どこかで耳にしたことはないでしょうか。中国ドラマや歌の歌詞にもしばしば顔を出すこの言葉は、今から2500年ほど前に生まれた、一篇の詩に源があります。中国最古の詩集『詩経』に収められた「蒹葭(けんか)」です。
晩秋の葦原を舞台に、手の届かない想い人を追い求める――静かで、透き通るように切ないこの詩を、原文と現代語訳でたどってみましょう。
■ 「蒹葭」とは ──『詩経』秦風篇の恋の詩
「蒹葭」は、紀元前7世紀ごろに成立したとされる『詩経』の「国風・秦風篇」に収められた詩です。「蒹(けん)」も「葭(か)」も、どちらも水辺に生える葦(あし)のこと。タイトルそのものが、見わたすかぎりの葦原の風景を立ちのぼらせます。
全三章からなり、よく似た言葉をくり返しながら少しずつ表現を変えていく「重章畳詠(じゅうしょうじょうえい)」という構成。同じ旋律をくり返す歌のように、追い求めても届かない想いが、章を重ねるごとに深まっていきます。
■ 原文・読み・現代語訳
蒹葭蒼蒼、白露為霜。
(蒹葭〔けんか〕蒼蒼〔そうそう〕たり、白露〔はくろ〕霜と為る) 葦は青々と生い茂り、白い露は霜へと変わる。
所謂伊人、在水一方。
(所謂〔いわゆる〕伊〔こ〕の人、水の一方に在り) わたしの想うあの人は、水の向こうにいる。
溯洄従之、道阻且長。
(溯洄〔そかい〕して之に従えば、道は阻〔けわ〕しく且つ長し) 流れをさかのぼって追っていけば、道は険しく、そして長い。
溯游従之、宛在水中央。
(溯游〔そゆう〕して之に従えば、宛〔えん〕として水の中央に在り) 流れを下って追っていけば、その人はあたかも、川の真ん中にいるかのよう。
【第二章】 蒹葭萋萋、白露未晞。
(蒹葭萋萋〔せいせい〕たり、白露未だ晞〔かわ〕かず) 葦は生い茂り、白い露はまだ乾かない。
所謂伊人、在水之湄。
(所謂伊の人、水の湄〔きし〕に在り) わたしの想うあの人は、水のほとりにいる。
溯洄従之、道阻且躋。
(溯洄して之に従えば、道は阻しく且つ躋〔のぼ〕る) さかのぼって追えば、道は険しく、坂を登っていく。
溯游従之、宛在水中坻。
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(溯游して之に従えば、宛として水の中坻〔ちゅうち〕に在り) 下って追えば、その人はあたかも、川の中州にいるかのよう。
【第三章】 蒹葭采采、白露未已。
(蒹葭采采〔さいさい〕たり、白露未だ已〔や〕まず) 葦は色あざやかに茂り、白い露はまだ消えやらない。
所謂伊人、在水之涘。
(所謂伊の人、水の涘〔みぎわ〕に在り) わたしの想うあの人は、水ぎわにいる。
溯洄従之、道阻且右。
(溯洄して之に従えば、道は阻しく且つ右〔う〕す) さかのぼって追えば、道は険しく、折れ曲がっていく。
溯游従之、宛在水中沚。
(溯游して之に従えば、宛として水の中沚〔ちゅうし〕に在り) 下って追えば、その人はあたかも、川の小島にいるかのよう。
さとえによる簡単な訳
「葦は緑に染まり、露は霜のように白く」
詩は晩秋の朝の風景から始まります。広大な葦原が緑に色づき、朝露が白い霜のように輝く。
冷たく静寂で、霞に包まれた幻想的な情景の中で、主人公は問いかけます。
「愛する人はどこにいますか?」
「愛する人」は「水の向こう側」、
近くにいながら遠くにいるように思われます。
愛する人を求めて上流へ行き、下流へ行き、彼女を探しますが、
道は険しく長く、彼女を探しても、出会うことはできません
道は険しく、登るのは困難です
道は曲がりくねっていて危険です
すぐそこにいそうなのに、決して到達できません
■ この詩が描くもの ── 届かない、ということ
葦原のかなたに、確かにあの人がいる。けれど、上流へ向かえば道は険しく長く、下流へ向かえば、その人は水の真ん中へ、中州へ、小島へと、するりと逃げていく。近くに見えるのに、決して届かない。
「蒹葭」が2500年ものあいだ人の心を離さないのは、この“届かなさ”が、恋だけのものではないからでしょう。手が届きそうで届かない理想、取り戻せない時間、もう会えない人――人生のさまざまな「在水一方」を、わたしたちはこの詩の中に見いだしてしまうのです。
✦ さとえの見立て
この詩のすごさは、あの人を「つかまえた」とも「あきらめた」とも言わずに終わるところだと思います。最後まで、想い人は水の向こうにいるまま。それでも追うことをやめない――その宙づりのままの想いこそが、いちばん切なく、いちばん美しい。
だからこそ「蒹葭」は時代をこえ、後の世の詩や歌に何度もよみがえってきました。中国ドラマ「ミーユエ」のエンディング曲『伊人如梦』も、その遠い末裔のひとつだと、わたしは思っています。
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