※本サイトは、アフィリエイト広告を利用し収益を得て運営しています

婉容——清朝最後の皇后、その生涯②

婉容——清朝最後の皇后、その生涯②

天津の花から満洲国の偽后へ——皇后という名の檻

本記事は「婉容——清朝最後の皇后、その生涯 郭布洛家の栄光から紫禁城へ」の続きです。

一 流浪——王府からドイツ公使館、そして日本へ

紫禁城を出た後

1924115日、馮玉祥のクーデターによって紫禁城を追われた溥儀と婉容は、まず北京の醇王府に身を寄せた。かつて溥儀が幼少期を過ごした父の屋敷である。しかしそこも長くはいられなかった。

次に頼ったのはドイツ公使館だった。しかしドイツ側は断った。

行き場を失った一行がたどり着いたのは、北京の日本公使館だった。

日本側は彼らを最上級の部屋に迎え入れ、手厚くもてなした。しかし皇帝一家の要求は際限がなく、公使館側もやがて手を焼くようになった。やがて、より広い日本人租界のある天津へと移ることになった。

さとえの見立て:溥儀と婉容が日本を頼ったのは、日本に誘拐されたからではない。ドイツに断られた末の、最後の選択肢だった。しかも天津での暮らしは、後に見るように、とても「強制」とは言えない快適なものだった。「日本に騙された被害者」という物語は、この経緯を無視している。

二 天津の花——ヘンリーとエリザベスの日々

社交界の女王

天津の日本人租界での生活は、婉容にとって人生で最も輝いた時間だったかもしれない。

溥儀は「ヘンリー」、婉容は「エリザベス」と名乗り、西洋的な社交界へと踏み出した。婉容は旗袍を脱ぎ、西洋のドレスに身を包み、ハイヒールを履いた。各国の大使、商人、各界の名士が集うパーティーに足繁く通い、その美しさと品格で「天津社交界の花」と呼ばれるようになった。

嵯峨浩——後に溥儀の弟・溥傑と結婚し皇室の一員となる日本女性——は、婉容と初めて対面した時の印象を証言として残している。婉容は168センチほどの長身に、さらに高いハイヒールを履いていた。すらりとした体型と際立つ佇まい。嵯峨浩の目には、それは際立って美しい女性として映った。

I love you」と刻まれた時計

溥儀はこの時期、婉容にダイヤモンドをあしらった高級時計を贈った。その時計は現在、博物館に収蔵されている。文字盤の裏側には小さな文字で刻まれている——I love you」と。

天津の租界で洋装に身を包み、国際社会の舞台に立ち、皇帝から愛の言葉を贈られた女性。天津時代の婉容は、まさに時代の寵児だった。

さとえの見立て:この時計が物語るのは、婉容と溥儀の関係がかつて持っていた温度だ。後に溥儀が婉容をほぼ顧みなくなることを思えば、「I love you」という言葉の重さがいっそう際立つ。天津での二人はまだ、ともに未来を信じていたのかもしれない。

三 満洲国へ——自らの選択、そして現実

宦官の証言——婉容は自ら行った

中国側の資料の多くは、婉容が日本人に「騙されて」満洲国へ連れて行かれたと記している。しかし近侍していた宦官の証言は、異なる事実を伝えている。

婉容は自らの意志で満洲国へ向かった。

なぜか。答えは明白だろう。天津での快適な生活を続けることはできたかもしれない。しかし「皇后」の称号は失われる。婉容にとってそれは、選択肢にならなかった。

毛皮のショール

出発の日、婉容は車に乗り込んだ後、侍女に告げた。「狐の毛皮のショールを忘れてきた。取ってきて」と。

その一言が、婉容の心の中を映している。彼女は満洲国へ「逃げる」のではなく、「移る」つもりだった。おしゃれをして行く価値のある場所へ向かうつもりだった。

さとえの見立て:「騙された」人間が毛皮のショールを取りに行かせるだろうか。婉容は自ら選び、自らの判断で満洲国へ向かった。ただ、その判断は甘かった。

長春に着いた日

婉容の到着時の映像記録が残っている。その顔は、沈んでいた。

長春(新京)は天津ではなかった。目に入るものすべてが荒涼としていた。国際的な社交界も、西洋の香りも、煌びやかなパーティーも、そこにはなかった。

映像の解説者(中国側)は「騙されたと悟った顔だ」と言う。しかし私には違って見える。

さとえの見立て:あの沈んだ表情は、「騙された」人間の顔ではない。「甘かった」と気づいた人間の顔だ。狐の毛皮のショールを持ってこさせた女性が、着いた瞬間に見た現実——それが婉容の顔に出ていたのだと思う。中国側の解説者は「日本に騙された」という物語の枠の中で映像を見ている。しかし証拠は逆を示している。

四 満洲国の檻——隔離、監視、アヘン

皇居という名の分断装置

満洲国の「皇居」は、もとは吉林・黒龍江塩運局の事務所だった。二階建ての灰色のレンガ造り。溥儀は西棟、婉容は東棟に置かれた。ふたりは意図的に引き離された。

周囲には数人の中国人使用人が残されていたが、実態は日本側の厳重な監視下に置かれていた。やがて中国人使用人は順次入れ替えられ、最終的には日本人スタッフのみとなった。婉容の周囲から、中国語が消えた。

さとえの見立て:東棟と西棟への分断は、単なる建築の都合ではない。天津では「ヘンリーとエリザベス」として並び立っていたふたりを、物理的に切り離す装置だった。婉容を孤立させ、外部との接触を断ち、やがてアヘンに沈ませる——その設計図の最初の一手が、この間取りだったように思えてならない。

アヘンという「優遇」

婉容にはもともと精神的な不安定さがあり、アヘンはその症状を和らげる手段として用いられていた。満洲国に来てからも、日本人スタッフはその消費を一切制限しなかった。「皇后への優遇」として、欲しいものは何でも与えられた。

宮廷の記録によれば、1938年から1939年の一年間だけで、婉容は740両のアヘンを購入している。一日あたり約2両。これは重度の依存状態を示す消費量だ。

孤立が深まるほど、婉容はアヘンに頼った。アヘンを吸うほど、心と身体が蝕まれた。その悪循環から抜け出す術は、もうなかった。

五 父が作った皇后——庭での叫び

弟・潤麒の証言

弟の潤麒はこんな場面を証言している。

ある日、婉容は庭に向かって走り出し、叫んだ。「私は父につくられた」と。

父・栄源は銀20万両を賄賂として宮廷に撒き、家が傾くほどの犠牲を払って婉容を皇后の座に送り込んだ。その父の期待に報いるために、婉容は皇后の称号にしがみみつき続けた。毛皮のショールを持ってこさせながら満洲国へ向かったのも、その執着ゆえだった。

さとえの見立て:中国側の資料には「婉容は脱出を図った」という記述もある。しかし私は疑わしいと思っている。理由はふたつある。ひとつは身体的なもの——後述するように、末期の婉容は自力で立つことも、トイレに行くことも、できなかった。逃げ出せる体ではない。ふたつめは心理的なもの——脱出すれば皇后の称号は消える。それだけは耐えられなかったはずだ。弟が語る「庭での叫び」は、おそらく「脱出」ではなく、もう限界だという叫びだったのだと思う。走れるうちに、走れる距離だけ走った。庭がその果てだった。そこで弟に向かって、父への感謝と呪いが入り混じった言葉を吐き出した。

広告

六 身体の崩壊——天津の花のなれの果て

嵯峨浩の証言

嵯峨浩は婉容の末期の姿を目撃している。そこには、天津で見た長身の美女の面影はなかった。

婉容は一日中ベッドに横たわり、アヘンを吸い続けた。手足の筋肉は萎縮し、自力で立つことも、トイレに行くことも、できなくなっていた。背中は曲がり、歯はぼろぼろに崩れ、口から膿が垂れていた。

歯科医、そして老人ホーム訪問者として

私は歯科医であり、老人ホームを訪問する仕事もしている。だから婉容の末期の状態が、どういうものだったか、具体的にわかる。

長期間寝たきりになると、手足の筋肉は棒のように細くなる。身体を伸ばす筋肉より、縮める筋肉のほうが優位になるため、身体はエビのように丸まっていく。背中が曲がって見えるのはそのためだ。

動かないと骨も細くなる。圧迫骨折を起こしやすくなり、それがさらに背中の変形を進める。

骨の代謝が悪くなれば、当然歯も弱くなる。溶けたような状態になり、歯槽膿漏が進んで口から膿が出る。感染に抵抗できなくなった身体は、口だけでなく全身から膿を出す。

そして排便のコントロールができなくなる。異臭がする。

さとえの見立て:映画『ラストエンペラー』では、婉容が大きな階段をゆっくりと降りながら日本人将校に唾を吐き、毅然と満洲国の宮殿を後にする。美しく、誇り高く。しかし嵯峨浩の証言が描く現実は、まったく違う。自力で立てない女性が、階段を降りるどころではない。映画の婉容は「象徴」だ。しかし嵯峨浩が見た婉容は「現実」だ。天津で168センチの長身にハイヒールを履いて社交界に立っていた女性が、アヘンと孤立によってあの状態にされた。これが何年もかけて人間の身体にしたことだ。

七 逃亡、そして嵯峨浩たちの苦労

崩壊の中で

19458月、ソ連が対日参戦し、満洲国は瞬く間に崩壊した。皇室一行は逃亡を余儀なくされた。

その混乱の中で婉容を動かしたのは、嵯峨浩と残された使用人たちだった。

自力で立てない。歩けない。排泄のコントロールもできない。そういう状態の人間を、崩壊する帝国の混乱の中で運ぶということが、どれほどのことか。

さとえの見立て:中国側の資料も、映画も、婉容の「悲劇」にスポットを当てる。しかし婉容のそばにいた嵯峨浩や使用人たちの苦労には、ほとんど目が向けられない。あの状態の人間のそばにいるということは、肉体的にも精神的にも、並大抵のことではない。嵯峨浩は連れ逃げた。それは立派なことだ。「日本人は婉容を搾取した」という物語は、この事実を見ていない。

ソ連兵の沈黙

やがて一行はソ連軍に捕らえられた。

ある兵士が要求した。「皇后は美しいと聞いている。会わせろ」と。

周囲が止めようとした。しかし兵士は聞かなかった。

嵯峨浩の証言によれば、兵士は婉容のいる場所へ入っていった。そして——沈黙した。後退りして、出てきた。何も言わなかった。

さとえの見立て:その兵士が何をしようとしていたか、想像に難くない。崩壊した戦線の末期に、美しい女性を「見に行く」と言った兵士の目的は、おそらく一つだ。しかし彼は後退りして出てきた。変わったのは彼の心ではなく、彼が見たものだ。その沈黙が、末期の婉容の姿を最も雄弁に語っている。どんな文章より、そのソ連兵の沈黙のほうが正確だ。

八 溥儀の再婚——花嫁ではなく介護士として

溥儀は満洲国時代に再婚している。

ある文献によれば、その相手は「花嫁」というより「婉容の世話係」として選ばれた面が強かったという。だからこそ、高貴な家柄である必要はなかった。必要だったのは、誰もやりたがらない世話を引き受けてくれる人間だった。

さとえの見立て:もしこの記録が正しければ、この時点での婉容の扱いはあまりにも残酷だ。「皇后」という称号はまだある。しかし実態は「処理すべき問題」だった。天津で「I love you」と刻んだ時計を贈った男が、やがて妻を世話するための「介護要員」を妻として迎えた。その落差の中に、婉容という人生の全体がある。

九 最期——「偽皇后」

延吉の刑務所

ソ連軍に捕らえられた婉容は、中国東北部の各地を移送された後、吉林省延吉市の刑務所に収容された。嵯峨浩とは途中で別れ、以降は身近な者による記録がない。

伝えられるところによれば、婉容は暗く湿ったコンクリートの部屋の、二段ベッドの下段で横たわっていた。アヘンを断たれた苦痛は激しく、床を転げ回り、叫んだ。

死の直前、体重は約30キロ。目は窪み、歯はなく、膿に覆われ、骸骨のようだったと看守は証言している。

それでも——侍女に指図する声だけは止まなかった。糞尿にまみれながらも、皇后の声で命じ続けた。アヘンはすべてを奪った。記憶も、身体も、現実の認識も。しかし「皇后である自分」だけは、奪えなかった。

死と記録

1946620日、婉容は獄中で息を引き取った。享年40歳(中国式)。

刑務所の記録にはこう記されていた。

「容氏、40歳、偽皇后」

遺体は当初、監獄そばの溝に投げ捨てられた。後に心ある看守が棺を用意し、延吉南部の山奥に密かに埋葬したという。墓石もなく、弔辞もなく、遺体は今も見つかっていない。

さとえの見立て:「偽皇后」——その二文字が、婉容の人生を総括する言葉として残った。父が銀20万両を費やして手に入れた名が、死の瞬間にその二文字で消された。通るべき門を通れなかった(参照)。皇后として生きる場を与えられなかった。そして死後、皇后と呼ばれることさえ許されなかった。門は消え、称号は抹消され、墓も見つからない。三重の抹消がそこにある。

おわりに——皇后という名の檻

婉容は哀れな被害者だったのか。

確かに彼女は搾取された。満洲国という装置の中で、アヘンで廃人にされた。それは事実だ。

しかし同時に、婉容は自ら選んだ。ドイツ公使館に断られた溥儀が日本を頼ったように、婉容もまた選択した。皇后の称号を手放さないために、天津を捨て、毛皮のショールを持って満洲国へ向かった。庭で弟に叫んだ言葉の通り、彼女は父につくられ、父への恩義のために皇后の座にしがみついた。

それは「哀れ」なのか、それとも「自らの意志を生きた」ということなのか。

刑務所で糞尿にまみれながらも「皇后の声」で命じ続けた婉容を見て、私は後者だと思う。誰にも奪えなかったものが、あの女性にはあった。

「容氏、40歳、偽皇后」

その記録は間違っている。婉容は最後まで、自分が皇后だと知っていた。

本記事は「婉容——清朝最後の皇后、その生涯 郭布洛家の栄光から紫禁城へ」の続きです。

「さとえの見立て」は筆者個人の分析・解釈です。記録された史実と区別してお読みください。

¥220 (2026/02/07 18:49時点 | Amazon調べ)
¥220 (2026/02/07 18:50時点 | Amazon調べ)

広告

中国ドラマ

広告