中世の信濃を語るとき、どうしても外せない存在が「諏訪神党」です。
諏訪氏を中心に、海野氏、望月氏、祢津氏など、信濃各地の武士たちが結びついた集団です。ただし、単純な「一族」「同族」ではありません。
では、彼らは何によって結ばれていたのでしょうか。
鍵になるのは、諏訪明神への信仰と、その神役への奉仕です。
血がつながっているから仲間なのではなく、諏訪明神に属する者だから仲間になる。
この中世ならではの結びつき方を理解すると、なぜ諏訪氏が中先代の乱で北条時行を担いだのかが、ぐっと見えやすくなります。
条件は「諏訪明神の氏人であること」
手がかりは「神党」という名前そのものにあります。
諏訪氏は、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を代々務めた家です。大祝は単なる神主ではありません。諏訪明神の依代、つまり生きた神そのものとして位置づけられた存在でした。
諏訪市の説明でも、上社大祝は古代から近世末まで世襲され、諏方氏を名乗ったとされています。中世には諏訪の領主として、政治的な力も握っていました。
つまり、大祝を頂点として、諏訪明神に仕える武士たちが組織されていたのです。
諏訪市博物館の資料によれば、平安時代末期から諏訪の神を軍神として深く信仰した人々が武士化し、大祝諏訪氏の本姓である「神(みわ・じん)」を名乗る武士たちが現れました。
彼らを結びつけていたのは血筋ではなく、「自分たちは諏訪明神の氏人である」という宗教的・政治的な帰属意識だったと考えられます。
神職であり、領主であり、武士でもあった諏訪氏
ここが諏訪氏の非常に特殊なところです。
諏訪氏は大祝という宗教的な地位を世襲しながら、鎌倉時代には幕府の御家人となりました。さらに北条氏、とくに得宗家との関係を深め、その御内人(みうちびと)になっていきます。
神職であり、領主であり、武士でもある。これが中世諏訪氏の姿でした。
中世の日本では、「神社」と「武士」と「政治」が、現代人が考えるほどはっきり分かれていなかったのです。
源頼朝は、諏訪大社を単なる神社として扱わなかった
この仕組みを形づくるうえで大きな役割を果たしたのが、源頼朝です。
頼朝は諏訪大社を厚く信仰し、文治2年(1186)には上下社に神馬を奉納しています。
さらに重要なのは、信濃の御家人たちに五月会(ごがつえ)と御射山祭(みさやまさい)の頭役を務めるよう命じたことです。頭役とは、祭礼の費用や準備を担当する役のことです。
信濃の武士たちは、ただ諏訪大社を信仰するだけではありません。諏訪明神の祭礼を、武士として公的に支える義務を負ったのです。
そこには、もう一つ重要な命令がありました。それが「大祝に従うこと」です。
信濃の御家人たちは、鎌倉幕府の御家人であると同時に、神事においては大祝を中心とする秩序に組み込まれていました。
神役を務めると、何が得られたのか
では、信濃の武士たちはなぜ祭礼の負担を引き受けたのでしょうか。
もちろん信仰はあったでしょう。けれども、それだけではありません。頭役を務める御家人には、具体的な特権が認められていました。
① 鎌倉番役の免除
御家人には、交代で鎌倉に出向き、将軍御所などを警護する義務がありました。
信濃から鎌倉まで、家来と馬を連れて往復します。滞在中の食い扶持も自前です。数か月にわたって、働き手と現金が出ていくことになります。これが免除されるのは、大きな負担減でした。
② 国司の初任検注の免除――こちらが本命
検注とは、国司が着任したときに行う土地の再調査です。田んぼを測り直し、面積と収穫高を帳簿に登録し直す。そこから年貢の額が決まります。今で言えば、新任の税務調査のようなものです。
そして中世の在地領主は、たいてい帳簿に載っていない田を持っていました。新しく開いた田、少しずつ広げた田。検注が入れば、それが見つかって課税対象になってしまいます。
頭役を務めることで、この調査を免れることができたのです。
『吾妻鏡』関係史料の研究でも、五月会・御射山祭の頭役人について、鎌倉番役や諸公事の免除、さらに信濃国司の初任検注の免除が問題になったことが確認されています。
つまり、諏訪明神への神役を果たすことが、そのまま武士たちの政治的・経済的な利益につながっていたわけです。
お金は信濃に残る
とはいえ、頭役は決して軽い負担ではありません。祭礼の費用をまかなう頭役は、たいへんな出費でした。
諏訪の祭りにお金がかかるのは、今も変わりません。地元の銀行には、御柱祭に備えてお金を積み立てる「御柱定期」があるほどです。
ここで考えてみたいのは、そのお金の行き先です。
同じ出費でも、鎌倉への番役や国衙への年貢として納めれば、お金は信濃の外へ出ていってしまいます。けれども諏訪の祭礼に注げば、お金は信濃の中で回り、信濃に残ります。
祭りの準備には人手も物も要ります。その費用は、地元の職人や商人、農民の手に渡っていきます。
つまり頭役の負担は、信濃の民にとっても恵みとなる出費だったのです。神役の仕組みは、武士の特権であると同時に、信濃という土地の富を信濃の中にとどめる仕組みでもあったと言えるのではないでしょうか。
鹿と田畑
諏訪の祭りには、もう一つ民の暮らしにつながる面があります。
諏訪大社上社の御頭祭では、かつて鹿の頭が神前に供えられました。御射山祭も、武士たちが山に集まって狩りを行う神事です。諏訪の信仰は、狩りと深く結びついていました。
今、南信濃では鹿が増えすぎて、農作物が荒らされる被害に悩まされています。
この時代、狩りの神事によって鹿を獲ることは、鹿の数が増えすぎないようにし、田畑の作物を守ることにもつながっていたのではないでしょうか。
ここで一つ疑問が浮かびます。仏教は殺生を禁じています。神仏習合の時代に、鹿を狩り、その肉を食べることは許されたのでしょうか。
その答えが、諏訪大社の出した「鹿食免(かじきめん)」というお札です。これを受ければ、鹿などの肉を食べても差し支えない、とされました。
添えられたのが「諏訪の勘文」と呼ばれる偈文です。前世の業によって獣として生まれた命も、人に食べられて人の身に宿ることで、ともに仏の悟りに至ることができる――そういう考え方で、狩りと肉食を仏教の言葉で意味づけたのです。
考えてみれば当然のことです。肉を食べなければ、田畑を耕す体力も出ません。山国の信濃で暮らす人々にとって、鹿は大切な栄養源でもありました。
殺生を禁じる仏教の教えと、生きるために肉を食べなければならない現実。その間を、諏訪明神がつないでいたのです。
神事として行われる狩りが、そのまま領民の作物を守る役目も果たしていた。ここにも、神事と武士と民の暮らしが一つに結びついた、諏訪ならではの姿が見えてきます。
領民にとっての「鎌倉の保護」
鎌倉幕府の仕組みに守られていたのは、武士だけではありません。
鎌倉幕府は文永元年(1264)、田んぼの裏作として作る麦、いわゆる田麦について、地頭が年貢として取り立てることを禁じ、農民の取り分とするよう命じています。二毛作が広まりつつあった時代に、裏作の麦を百姓の暮らしの支えとして保護したのです。
漫画『逃げ上手の若君』では、建武政権のもとで新たに乗り込んできた国司が、本来取られないはずの麦まで取り上げ、領民が苦しむ様子が描かれています。
建武期の信濃で、国司が実際に田麦を取り立てたことを示す具体的な史料は、私の調べた範囲では見つかっていません。ただ、鎌倉幕府という後ろ盾が消えたことで、武士の特権だけでなく、民を守っていた決まりごとまで揺らいだ――そう想像することは、決して不自然ではないと思います。
ここに諏訪神党の強さがあった
ここまでを整理すると、信濃の武士は次のような関係の中にいたことになります。
- 諏訪明神を信仰する
- 諏訪大社の祭礼に、神役として奉仕する
- 大祝を中心とする神事の秩序に入る
- その見返りに、幕府から特権を認められる
そして、その祭礼に注がれたお金は信濃の中で回り、領民を潤しました。
諏訪神党とは、信仰だけの集団でも、血縁だけの集団でもありません。神事と武士の主従関係、そして領民の保護と利益が組み合わさってできた仕組みだったのです。
諏訪氏は、神に仕える神主であり、武士を束ねる領主でした。そして、領民の暮らしや利益にも気を配る存在でした。
だからこそ諏訪氏は、単なる「神主の家」にとどまりませんでした。諏訪明神を媒介として、武士と民の両方をまとめる力を持つことができたのです。
鎌倉幕府の滅亡で、前提が崩れる
1333年、鎌倉幕府が滅亡します。それまで秩序を支えていた「鎌倉幕府―御家人―諏訪大社―大祝」という関係が、根元から崩れました。
代わって始まったのが、後醍醐天皇による建武政権です。新しい政権が進めたのは、国司の復活と国衙の権限の立て直しでした。
これは諏訪神党にとって重大な問題です。神役を務めることで得ていた「初任検注を受けなくてよい」という特権が、そのまま認められる保証はなくなったからです。
さらに建武政権は、各地に新しい守護を送り込みました。信濃でも小笠原貞宗が守護となります。信濃の武士たちの上に、国司と新しい守護という二つの公的な権力が入り込んできたのです。
建武政権の側から見れば、「幕府が認めていたからといって、国司の権限を無視してよいのか」という話になります。
一方、諏訪神党の側から見れば、「自分たちは代々、諏訪明神に仕え、神役を務めてきた。その秩序は簡単に否定できるものではない」となります。
そこには、感覚の違いもあったと思います。
都から遣わされた国司は、殺生や肉食を穢れとして遠ざける、雅な都の価値観を身につけた人です。けれども信濃の人々は、鹿を狩り、肉を食べて体力をつけ、田畑を耕して暮らしてきました。諏訪明神の祭りも、その暮らしと一体のものでした。
長野県で育った私から見ても、都の雅な人に信濃のやり方をあれこれ言われたら、当時の人たちは「何言ってんだよ」と思ったに違いありません。
建武政権との対立は、制度や特権の問題だけではありませんでした。山国で生きる人々の暮らしの感覚と、都の感覚とのぶつかり合いでもあったのではないでしょうか。
これは単なる土地争いではありません。誰に従うのかという、政治秩序そのものの衝突だったのです。
なぜ諏訪氏は北条時行を担いだのか
ここで、諏訪氏と北条氏との結びつきが意味を持ってきます。
諏訪氏は北条得宗家の御内人となることで、「諏訪明神を中心とする信濃の武士団」と「鎌倉幕府、とくに北条得宗家」という二つの力をつないでいました。
ところが1333年、北条氏は滅亡します。
1335年、北条高時の遺児・時行を担いで起こった中先代の乱で、諏訪頼重ら諏訪氏が中心的な役割を果たしたのは、単に「北条氏に恩があったから」だけでは説明しきれません。
諏訪氏にとって鎌倉幕府の崩壊は、自分たちが生きてきた政治・神事・武士団の秩序そのものの崩壊でもあったからです。
そしてそれは、信濃の民の暮らしと経済にも直結する問題でした。
都から来た国司は、都の貴族の贅沢な暮らしを支えるために、信濃からお金を取り上げていくだけの存在です。取られたお金は、二度と信濃には戻ってきません。
一方の諏訪神党は、狩りの神事で田畑を守り、祭礼を通じて信濃にお金を落としてくれる存在でした。
どちらについたほうが自分たちの暮らしが守られるのか。信濃の人々にとって、答えははっきりしていたのではないでしょうか。諏訪氏が北条時行を担いで立ち上がったとき、多くの信濃の武士と民がそれに従ったのは、恩義や信仰だけでなく、こうした暮らしの実感があったからだと思うのです。
中先代の乱、そして燻り続ける抵抗
諏訪神党が守ろうとしたのは、諏訪氏の領地だけではありませんでした。
そこには、諏訪明神・大祝・神役・信濃武士・鎌倉幕府が長い時間をかけて結びついた、一つの秩序がありました。その中心にあったのが、「諏訪明神の氏人である」という意識です。
そこへ建武政権が、国司の復活、国衙権力の再建、新しい守護の派遣によって、新たな支配秩序を持ち込もうとしました。
諏訪神党と建武政権の間に生じた緊張は、単なる「反乱」ではなく、中世的な神事と武士団の秩序と、新しい国家的支配秩序との衝突として見ることができるのではないでしょうか。
その緊張が頂点に達したのが、1335年の中先代の乱です。
1335年、まず動いたのは北信濃でした。
保科氏(長野市)と四宮氏(川中島)が、千曲市にあった守護小笠原貞宗の守護所を襲撃し、守護方の市河氏と合戦になります。海野氏(上田市)、祢津氏(東御市)、望月氏(佐久市)も、保科・四宮を助ける動きを見せました。
保科・四宮の軍は、決着をつけることなく、だらだらと後退しながら戦い続けました。そのため市河氏や小笠原氏は、北信濃から手を抜くことができません。守護方は、北信濃に釘付けにされたのです。
そのすきに、諏訪氏が信濃国府(松本市)を急襲します。清原国司は自害に追い込まれました。
こうして諏訪氏は信濃を制圧し、北条時行を奉じて鎌倉へと攻め上ります。そして、ついに鎌倉を奪回するのです。
北信濃の神党が守護を引きつけ、その間に諏訪が国府を突く。信濃各地に散らばった神党の武士たちが、諏訪明神のもとで一つの作戦として動いた――ここにこそ、「神党」という結びつきの力がよく表れているように思います。
しかし、鎌倉を押さえていられたのはわずか20日ほどでした。京から下ってきた足利尊氏の軍に敗れ、頼重は鎌倉で自害します。
けれども、諏訪神党の抵抗はここで終わりませんでした。
時行は生き延びて南朝に帰順し、その後も北条再興を掲げて戦い続けます。暦応3年(1340)には、信濃南朝方の拠点だった伊那谷の大徳王寺城に入り、小笠原貞宗に攻められています。
諏訪神党もまた、北条残党として、そして南北朝の動乱の中では南朝方として、小笠原氏や村上氏など北朝方の勢力と戦い続けました。
文和4年(1355)、諏訪氏らは後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して桔梗ヶ原の戦いに臨みますが、信濃守護の小笠原長基に敗れます。これ以後、信濃の南朝方は衰え、諏訪氏自身の内紛もあって、神党の結束は次第に失われていきました。
鎌倉幕府の滅亡から20年以上。諏訪明神のもとに結ばれた武士たちは、失われた秩序を取り戻そうと、南北朝の時代をずっと燻り続けたのです。
彼らが戦ったのは、抽象的な信仰のためではありません。田畑と祭りと、山国で生きる暮らしを守るためでした。
諏訪神党の物語は、つまるところ、信濃の民の物語なのです。
参考
- 中先代の乱(コトバンク)
- 鎌倉奪還への最後の試練、井出沢の戦い(サンタツ)
- 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書、2021年)



