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『逃げ上手の若君』の雫はなぜ精霊と話せるのか——諏訪の神ミシャグチの正体

はじめに

漫画『逃げ上手の若君』で、諏訪頼重のそばにいる不思議な少女、雫。彼女は精霊や神獣たちと話すことができます。諏訪のガイドさんは、雫のモデルは諏訪の神ミシャグチ、あるいはその神を降ろす守矢氏ではないかと話していました。

では、ミシャグチとはどんな神なのでしょうか。諏訪の神は、ひとつの姿にとどまりません。縄文の蛇神、国譲りで敗れた神、元寇で神風を吹かせた龍神、そして武士が崇めた軍神。時代ごとに新しい姿が重ねられながら、古い層も消えずに残っています。諏訪大社を歩き、神長官守矢史料館や地元の方々から聞いた話を、史料で確かめられることと、語り継がれてきたこととを分けながら整理してみます。

縄文の蛇神ミシャグチと守矢氏

諏訪には縄文時代から「みしゃくじ様(ミシャグチ)」という神がいて、その正体は蛇だと語られています。この神を降ろすことができたのが、守矢氏です。守矢氏は代々神長官(じんちょうかん)を務め、ミシャグチの祭祀を担ってきました。

守矢家は今も続いていて、現在の78代当主は女性でご存命です。その当主によれば、この神の名は「ミシャグチ」なのだそうです。資料館の方も、ミシャグジ、ミシャクジ、御左口神、御社宮司など、いろいろな言い方があると話していました。この記事では、祭祀を担ってきた家の呼び方に合わせて「ミシャグチ」と書きます。

ただし「縄文から」というのは、八ヶ岳山麓の縄文遺跡や石棒信仰と結びつけた有力な見方で、証明されたものではありません。ミシャグチの正体も、石や樹木に宿る精霊、境界の神など諸説あり、蛇はその重なりのひとつと考えられています。

〈さとえの見立て〉 縄文時代の信仰は、大きな石や木など、そこに住む精霊をあがめるアニミズムだったと考えられています。神長官守矢史料館の方によれば、守矢氏は人間だけでなく、木や岩にもミシャグチさまを降ろすことができたそうです。石や木に降りるからこそ、そこに住む精霊たちの声が聞こえ、話をすることができる。私は、ミシャグチはそうした精霊たちの声を聞き、束ねる代表者のような存在だったのではないかと思っています。だからこそ、ミシャグチを降ろせる守矢氏が、諏訪の祭祀の要であり続けたのでしょう。

物部守屋の子が守矢家に入った伝承

仏教の受け入れに反対した物部守屋は、587年の丁未の乱で蘇我馬子らに滅ぼされました。守矢家には、このとき守屋の次男・武麿(たけまろ)が諏訪へ逃れて守矢家に迎えられ、27代目の当主となったという伝承があります。上社本宮の背後の山が「守屋山」と呼ばれることも、このつながりの証として語られます。武麿から数えて50代あまり、守矢家は今の78代当主まで続いています。

現地では、守矢家の裏に武麿のものではないかといわれる古墳があり、すぐ近くにはミシャグチを祀る神社もありました。こうしたつながりから、守矢家は「守屋家」とも書かれるのだそうです。

ただし、これは家の系譜伝承で、同時代の史料では確かめられません。守矢の名は洩矢神に由来し、物部の話はのちに結びついたと見る研究者もいます。

〈さとえの見立て〉 物部氏は、仏教の受け入れに反対し、日本古来の神々への信仰を大切にした一族でした。その血筋が守矢家に入ったという伝承は、守矢家が古い神の祭祀をどれほど重んじてきたかを物語っているように思います。たとえ史実でなくても、そういう系譜を自ら語り継いできたこと自体に、守矢家の強い誇りが表れているのではないでしょうか。

タケミナカタの生まれ——ヒスイの女神の子

諏訪明神タケミナカタの父は、出雲の大国主命です。母は沼河比売(奴奈川姫)、今の糸魚川の、ヒスイの女神です。

私が聞いて育った話では、こうです。今の糸魚川に、美しい姫君がいた。その噂を聞きつけて、はるばる出雲から大国主命がやってきて、ふたりは結ばれ、タケミナカタが産まれた。

糸魚川のヒスイは、遠く出雲まで運ばれていました。だからこういう話が伝わったのだと思います。

(『古事記』は、大国主が沼河比売に求婚した話と、タケミナカタが大国主の子であることを別々に記しています。両者を母子として結ぶのは『先代旧事本紀』以降の伝えです。沼河比売とヒスイの結びつきは、『万葉集』に沼河の川底の玉を詠んだ歌があることが根拠としてよく挙げられます。)

国譲りの敗者タケミナカタ

かつて日本の国は、大国主命が治めていました。そこへ高天原の神、すなわち天照大御神から、国を譲るようにという使いが来ます。大国主命は先住の人々、高天原は大陸から渡ってきた人々を表している、という見方もあります。

大国主命の子のうち、兄の事代主神は国譲りを受け入れましたが、次男のタケミナカタはただひとり抵抗しました。そこで高天原から遣わされたタケミカヅチと、力比べで勝負することになります。

タケミナカタがタケミカヅチの腕をつかもうとすると、その腕は氷の柱になり、さらに剣の刃に変わって、つかむことができません。反対にタケミカヅチがタケミナカタの手をつかむと、若い葦のように握りつぶして投げ飛ばしてしまいました。これが相撲の原点といわれ、諏訪大社[宮の名前]には今も土俵があります。

敗れたタケミナカタは科野国(信濃)の州羽海(すわのうみ=諏訪湖)まで追いつめられ、「この地から出ません」と誓って許されます。地元では「投げ飛ばされて諏訪に飛んできた」と語られていました。

私の聞いた話では、逃げてきた神はついに諏訪湖のほとりで観念し、四本の柱を立てて「ここから出ません」と誓って、命を助けられたそうです。今でも諏訪地方のお宮は、四本の柱で囲まれています。(『古事記』には、柱の話は出てきません。)

なお、この抵抗の場面は『古事記』だけにあり、『日本書紀』にはタケミナカタ自身が登場しません。

小さな社にも立つ柱

その柱は、大きなお宮だけのものではありません。諏訪を歩いていて気づいたのは、小さな社でも、記念碑であっても、周囲に柱が立てられていることです。私が見たのは、「宗良親王の御所がここにありました」という石碑でした。その石碑のまわりにも、柱が立っていたのです。松本で育った私の地方には、そういう風習がないので、とても興味深く思いました。

諏訪大社の御柱祭では、上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮のそれぞれで、社殿の四隅に一之御柱から四之御柱までが立てられます。そして御柱祭の年には、諏訪地方の地域の小さな社でも、それぞれ柱を立てる祭りが行われるのだそうです(「小宮祭」と呼ばれます)。

〈さとえの見立て〉 柱の意味は結界、つまり聖域の境界を示すことだと説明されます。だとすれば、社でなくても、記念碑であっても、柱を立てることで「ここは聖域だ」と示しているのでしょう。四本の柱を立てて「ここから出ません」と誓った神の話が、諏訪の人々の暮らしの中に、今も形として生きているように思います。

天竜川の戦い——洩矢神との協力

ところが諏訪の伝承では、立場が逆になります。外から来たタケミナカタが、土着の洩矢神(守矢氏の祖)を破った勝者なのです。

二柱は諏訪湖から流れ出る天竜川をはさんで戦い、洩矢神は鉄の輪を、タケミナカタは藤の枝を手にし、タケミナカタが勝ちました。今も岡谷市には洩矢神社と、藤の枝が根づいたとされる藤島社が、川をはさんで向かい合っています。

タケミナカタは農耕民の神、洩矢神は狩猟民の神とされ、両方を営むために、両者が協力して治めることになったと伝えられています。ただ「農耕民と狩猟民」「弥生と縄文」という整理は、近代以降の研究者や郷土史家が示したモデルという面もあります。

この土地は地形も特別です。諏訪は、糸魚川‐静岡構造線と中央構造線という二つの大断層が交わる場所にあります。現地に行ってみると、東の山はなだらかで、西の山は険しく、その真ん中あたりに亀裂のようなものが見えました。東側には八ヶ岳や霧ヶ峰の火山がつくった高原が広がっています。

〈さとえの見立て〉 断層が示すように、そこは住む神の境界線だったのだと思います。断層の東側、なだらかな八ヶ岳山麓は、洩矢神たちが住む狩猟の国。実際、八ヶ岳山麓には縄文時代の遺跡が数多く残っています。一方の西側から来たのは、稲作や新しい技術を持ち込み、人々をまとめて土地を治めようとする神でした。大地の裂け目が二つの世界を分け、その境目を流れる天竜川が、二柱の神の決戦の場になったのではないでしょうか。

峠の向こうは、よその国

松本で育った私の感覚では、塩尻峠を越えたら、そこはよその国です。実際、塩尻峠は中央分水嶺で、峠の向こうの諏訪の水は天竜川となって南の太平洋へ、こちら側の水は北の日本海へと流れていきます。

この、水の流れる向きが違うということに、私はすごく違和感を覚えます。川を見ていると、方向感覚がずれてしまうのです。太陽を見て、ようやく方角を取り戻します。昔の人が峠を越えて攻め込むにしても、さぞ大変だったと思います。

〈さとえの見立て〉 日本海側の糸魚川で生まれたタケミナカタが、なぜその峠を越えて、諏訪の神になれたのか。私は不思議に思いました。けれども、だからこそ、タケミナカタは「外から来た神」として語られ、土着の洩矢神と戦わなければならなかったのかもしれません。

諏訪に行ってみて驚いたのは、ヒスイを尊ぶ文化ではないことでした。代わりに大切にされているのは、黒曜石です。町のあちこちに、大きな黒曜石が誇らしげに置かれていて、祀られているものもありました。

諏訪湖の北、霧ヶ峰から和田峠にかけては、日本有数の黒曜石の産地です。下諏訪町の星ヶ塔遺跡では、縄文時代に黒曜石を掘り出していた跡が見つかっています。黒曜石は割ると鋭く尖り、鏃(やじり)になります。黒く光る姿も美しい。狩りとともに生きた人々にとって、何より大切な石だったのでしょう。

ヒスイの女神の子が、黒曜石の国に入ってきた。糸魚川のヒスイと、諏訪の黒曜石。二つの石は、峠の向こうとこちらの、文化の違いそのもののように思えます。

宝物にも、同じ違いが見えます。糸魚川に行くと、ヒスイの勾玉がいかにも大事そうに扱われています。西の天皇の三種の神器にも、勾玉が入っています。

地元の方からは、大祝にも三種の神器があったと聞きました。鏡、鈴、そして鐙(あぶみ)です。大祝になるときにはこの三つが渡され、それをもって大祝となるのだそうです。

鏡は天皇の神器と同じです。けれども、そこに勾玉はありません。代わりにあるのは、馬に乗るための鐙でした。ヒスイの勾玉ではなく、馬にまたがる道具が、生き神のしるしだったのです。

〈さとえの見立て〉 西の天皇に三種の神器があるように、東の生き神にも三種の神器があった。そして、その神器に鐙が入っているところに、馬を駆り、狩りをし、戦う東国の武士たちの神であったことが表れているように思います。

そして、さらに古いミシャグチ神にも、三種の神器があったといいます。鉄鐸、鉄鈴、そして陰陽石です。

〈さとえの見立て〉 天皇の神器には勾玉、大祝の神器には鐙、そしてミシャグチの神器には陰陽石。陰陽石は男の石と女の石で、御室神事で男蛇と女蛇を交わらせて神を降ろした話と重なります。天皇の神器とも、大祝の神器とも違う、もっと古い層の神のしるしが、ここに残っているように思います。

鉄と藤

出雲は鉄の国です。外から来たタケミナカタのほうが鉄を持っていそうなものなのに、伝説では洩矢神が鉄の輪を持っています。なぜでしょうか。

〈さとえの見立て〉 私は、鉄が洩矢神の側の、祭祀の道具だったからだと思います。ミシャグチ神の神器には、鉄鐸と鉄鈴という、二つの鉄の祭具が含まれています。鉄鐸は「さなぎ鈴」とも呼ばれ、私も[場所]で見てきました。薄い鉄板を円錐形に丸めたものが六本、ひとつに束ねられ、それぞれの中に鉄の舌が吊るされて、鈴になっています。大祝の代理が、樹木や岩石など各地のミシャグチの地に人々を集め、この鉄鐸を鳴らして神事を行ったのだそうです。

もう一つの鉄鈴は、私は写真でしか見ていませんが、まさに鉄の輪のような形をしています。伝説で洩矢神が手にしていた「鉄の輪」とは、この鉄鈴のことではないでしょうか。洩矢神が持っていたのは武器ではなく、神を呼ぶ鉄の祭具だった。神を降ろす力は鉄と結びついていて、だから伝説でも、鉄は洩矢神のものなのでしょう。

伝説で洩矢神が手にしていた「鉄の輪」とは、この鉄鐸と鉄鈴のことではないでしょうか。六本の鉄の鈴を束ねた姿は、まさに鉄の輪に見えますし鉄鈴も鉄の輪に見えます。洩矢神が持っていたのは武器ではなく、神を呼ぶ祭具だった。神を降ろす力は鉄と結びついていて、だから伝説でも、鉄は洩矢神のものなのでしょう。

神長官守矢史料館のしおりに、藤森照信さんが上社の春の祭り、御頭祭のことを書いています。藤森さんは茅野の出身で、史料館の建物を設計した建築家です。1991年、この史料館が建築家としてのデビュー作でした。今は江戸東京博物館の館長を務めています。

それによれば、御頭祭には「御贄柱(おにえばしら)」と呼ばれる柱があり、神官が「藤刀(藤蔓を巻いた刀)」で柱に刻みをつける場面があります。

〈さとえの見立て〉 祭りをよく見てみると、どれにもストーリーがあります。文字のなかった時代、祭りは、その土地の歴史を人々に語り継ぐためのものでもあったのでしょう。毎年同じ所作を繰り返し、その所作を次の世代に伝えていく。そうすることで、歴史は確実に伝わっていきます。

鉄の祭具を持つ守矢氏の祭祀の中で、藤の刀がふるわれる。私は、これは天竜川の戦いを表しているのではないかと思います。藤の枝で鉄の輪を持つ洩矢神を負かした、あの戦いです。

 紙の記録はありません。けれども私は、昔、天竜川をはさんで土地の人々と外から来た人々との間に、何らかの争いがあった。その記憶が神々の戦いの伝説になり、藤刀の所作となって、千年以上語り継がれてきたのではないでしょうか。

生き神・大祝の誕生

タケミナカタの子孫とされる諏訪氏の当主は、大祝(おおほうり)と呼ばれ、神そのもの、生き神とされました。その大祝を生み出したのは、敗れた側の守矢氏の祭祀です。

神長官守矢史料館の方は、守矢氏の力を「神を操る」と表現していました。神を降ろし、神を上げる。人間に降ろせば、その人が大祝になる。木や岩にも、ミシャグチさまを降ろすことができるのだそうです。

だから守矢氏は、毎年冬になると、上社前宮の土の室に籠り、大祝にミシャグチを降ろす神事を行いました。大地の豊穣を願ってのことです。

大祝の暮らしと、この御室神事については、[頼重の記事 諏訪頼重に予知能力はあったのか——現人神の家の暮らしから読み解く]で詳しく書いています。

上社と下社、御神渡り

上社は男神さま(タケミナカタ)、下社は女神さま(妃の八坂刀売神)です。冬の諏訪湖に現れる御神渡りは、上社の側から下社の側へ亀裂が走るため、男神さまが女神さまに会いに行く道だと考えられてきました。自分から出向く男神です。

ここで少し脱線ですが、長野県は双体道祖神の宝庫で、男女が手を取り合ったり、肩を寄せ合ったり、杯を酌み交わしたりする、仲睦まじい姿のものがたくさんあります。私はそれに諏訪の神様がかさなるのです。諏訪の道祖神も、男女が仲良く酒を酌み交わし、男性が笑いながら女性にお酌をしている姿のものがあります。ほかの地方へ行くと、女性がひざまずいて男性にお酌をしている像があって、「なんだよ」と思うのだと、ガイドさんが笑っていました。

御神渡りは伝説であると同時に記録でもあります。湖畔の八剱神社が亀裂の筋や出現日を見極めて神事を行い、その記録「御渡り帳」は1443年から続いています。今では気候の長期データとしても研究に使われています。

下社には春宮と秋宮があります。山の神が春に春宮へ降りて田の神となり、秋に収穫を終えると山へ帰ると信じられていました。実際の神事では、2月1日に御神体が秋宮から春宮へ、8月1日に春宮から秋宮へ(お舟祭り)遷ります。

上社にはミシャグチと狩猟の色が濃く、下社には夫婦神と稲作の暦が濃い。狩猟と農耕の両立という話と、ここでもつながって見えます。

龍神タケミナカタと元寇

諏訪で話した人々は、タケミナカタは龍神で、元寇のとき幕府の願いに応えて龍神様が神風を吹かせたのだと信じていました。

これには中世の文献の裏付けがあります。1356年成立の『諏訪大明神画詞』に、諏訪明神が大きな龍の姿となって西へ向かい、蒙古の船を沈めたという話が記されています。ただ元寇のあとには伊勢の風宮をはじめ、多くの寺社が「うちの神が風を吹かせた」と恩賞を求めており、諏訪もそのひとつでした。甲賀三郎伝説のように、諏訪の神にはもともと蛇や龍の姿が重ねられていたことも、龍神の物語を自然なものにしたのでしょう。

鹿食免と全国の諏訪社

諏訪社は全国に1万5千ほどあり、それは鹿食免(かじきめん)を配ったためと考えられているそうです。仏教では四つ足の動物を食べると罰が当たるといわれていましたが、鹿食免はそれを許すお札です。そこには「諏訪の勘文」と呼ばれる四句が記されています。

業尽有情 雖放不生 故宿人身 同証仏果

寿命の尽きた生き物は、放してやっても生きられない。だから人の身に宿り、ともに仏の悟りを得るのだ、という意味です。食べることがかえって動物の供養になるという、神仏習合の時代ならではの論理です。史料館にも展示されていて、今も諏訪大社で鹿食免と鹿食箸をいただけるそうです。

鹿食免を携えて各地を回ったのは諏訪の御師でした。もう一つの流れが武士による勧請で、新しい領地へ移った東国の御家人たちが、そこに諏訪社を祀りました。民の暮らしと武士の信仰、その両方から諏訪信仰は全国へ広がったのです。

〈さとえの見立て〉

諏訪の神は、ひとつの姿にとどまりません。縄文以来とされる蛇神ミシャグチ、大和の神話では敗れて封じられたタケミナカタ、元寇で神風を吹かせた龍神、そして武士が崇めた軍神。時代ごとに新しい姿が重ねられながら、古い層も消えずに残っています。

とくに面白いのは、外から来て勝った側が生き神(大祝)となり、敗れた側の守矢氏が神を降ろす祭祀を握り続けたことです。諏訪氏が神となるには、守矢氏の力が欠かせませんでした。

神として表に立つのは大祝。けれども、その神を降ろし、操っていたのは守矢氏でした。表に立つ者と、それを動かす者が分かれている。この形は、日本の歴史のあちこちに見られます。

鎌倉幕府もそうでした。将軍は京から迎えた摂家や皇族で、実際に幕府を動かしたのは執権北条氏です。さらにその奥では、得宗家と、その御内人たちが力を握っていました。漫画『逃げ上手の若君』でも、摂津親鑑が娘に、時行は父君と同じように、お飾りの王になるだけだと語る場面があります。

御室神事の話を聞いて、カンボジアを旅したときのことを思い出しました。現地のガイドさんが、男の蛇と女の蛇が交わって国が生まれたと話してくれたのです。カンボジアの建国神話では、海の向こうから来た王子とナーガ(蛇神)の王の娘が結ばれて国が始まったとされます。アンコール時代には、王が毎晩、蛇の精の女性と交わらなければ国に災いが起きると信じられていたという記録もあります。王の正統性が蛇神との交わりから生まれるという点は、ミシャグチを降ろされて生き神となる大祝とよく似ています。

そのとき私は、日本は矛でかき回して国ができたのだから、ずいぶん違うなと思いました。けれど、それは大和朝廷の神話です。しかも国生みでも、イザナギとイザナミが交わって島々を生んでいます。大和にも、蛇の姿で現れる三輪山の大物主神がいます。大和の公式な神話では表に出なかった蛇神の信仰が、諏訪ではミシャグチとして祭祀の中心にずっと残り続けた。そう考えると、諏訪の信仰の古さがいっそう際立って見えます。

明治——国譲りの完成

明治4年(1871年)、神社の神職の世襲が全国一律で廃止されました。諏訪では、大祝の職も、神長官守矢氏の職も、同じ年に失われました。神を宿す家と、神を降ろす家が、一枚の布告で同時に消えたのです。

伊勢のような神社なら、神職の制度が変わっても、御神体は社殿に残ります。けれども諏訪では、神の体は生きた人間でした。大祝がいなくなることは、神の体がなくなることでした。

〈さとえの見立て〉 『古事記』の中で、タケミナカタは「この地から出ません」と誓い、国を譲りました。けれども諏訪では、その後も千年以上、生き神と、敗れた神の子孫による祭祀が続いてきました。国は譲っても、神の体は手放さなかったのです。

それが明治になって、ついに取り上げられました。神話の国譲りは、明治になって完成したのだと思います。譲った相手は、大和朝廷ではなく、明治政府という近代国家でした。

そして近代とは、目に見えない精霊の存在を否定するものでした。

『ピーター・パン』では、子どもが「妖精なんていない」と言うたびに、どこかで妖精が一人倒れてしまいます。ティンカー・ベルも、信じてもらえなければ弱っていきます。精霊も同じではないでしょうか。いないと否定されれば、いなくなってしまう。石や木に宿っていた精霊たちも、近代に否定されて、息を引き取ってしまったのだと思います。もう、ミシャグチもいないのかもしれません。

けれども、ティンカー・ベルは、子どもたちが「信じる」と手をたたいたことで、息を吹き返しました。

諏訪には、三百年に一度、神が現れるという神社があります。富士見町の乙事(おっこと)諏訪神社です。室町時代と江戸時代に、その記録が残っているそうです。

何が現れるのかは、わかりません。ただ、村人たちはあまりの喜びに、はっちゃけて骨になってしまったのだそうです。

地元の方に、「あと百年を切ったからね」と言われました。百年もしないうちに、ひょっとしたら新しく神がよみがえるのかもしれません。

参考

  • 『古事記』国譲り条
  • 『諏訪大明神画詞』(諏訪円忠、1356年)
  • 『先代旧事本紀』
  • 藤森照信「[題名]」(神長官守矢史料館のしおり)
  • 神長官守矢史料館の展示・解説
  • 諏訪市・茅野市の各資料
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