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小樽旅行で知った小林多喜二の意外な経歴

プロレタリア文学の巨匠は、実は銀行員だった

小樽を旅行してきました。この美しい港町で、プロレタリア文学の代表的作家である小林多喜二について、意外な発見をしました。

『蟹工船』で知られる小林多喜二について、私はてっきり労働者階級出身の作家だと思い込んでいました。しかし実際は全く違っていたのです。

多喜二の実際の経歴

小林多喜二は現在の小樽商科大学を卒業後、北海道拓殖銀行に就職したエリート銀行員でした。志賀直哉の作品に傾倒し、社会科学の勉強も積み重ねた後、プロレタリア文学の道へと進んだのです。

興味深いことに、『蟹工船』で描かれたオホーツク海のカムチャッカ半島沖での過酷な北洋漁業の実体験は、多喜二自身にはありませんでした。それでも、綿密な取材と深い社会への洞察により、あの傑作を生み出したのです。

作品の成功が招いた代償

『蟹工船』の成功は、皮肉にも多喜二に大きな代償をもたらしました。この作品により北海道拓殖銀行を解雇されてしまったのです。

旅行中に訪れた、多喜二が勤めていた銀行の建物は、現在博物館として保存されています。この写真の建物です。この歴史ある建物を見ながら、当時の多喜二の心境を想像せずにはいられませんでした。

文学創作に必要な条件とは

今回の発見で改めて考えさせられたのは、優れた文学作品を生み出すための条件についてです。

もし多喜二が幼少期から過酷な労働に明け暮れる日々を送っていたら、勉強する時間も機会もなく、あの深い洞察力と表現力を身につけることは難しかったでしょう。ある程度の教育を受け、社会を客観視できる立場にいたからこそ、労働者の苦境を鋭く描写できたのかもしれません。

金融都市・小樽で目の当たりにした格差社会

小樽について調べて驚いたのは、当時この街が日本銀行の支店まで置かれるような一大金融都市だったということです。巨万の富を築いた人々がいる一方で、極貧に喘ぐ人々も数多く存在する——そんな激しい格差社会の最前線で、銀行員として働いていた多喜二は、この現実を誰よりも間近で、そして日常的に目撃していたはずです。

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銀行の窓口や業務を通じて、富裕層の豪華な取引と、借金に苦しむ庶民の姿を同時に見続けていたであろう多喜二。この体験こそが、彼の作品に込められた労働者への深い共感と、資本主義社会への鋭い批判の源泉だったのかもしれません。

小樽で解けた謎:エリート銀行員がプロレタリア文学を書いた理由

今回の小樽旅行で、長年の疑問が氷解しました。なぜエリート銀行員だった小林多喜二が、あれほど労働者の心情を描いたプロレタリア文学を書くことができたのか——その答えは、この街そのものにあったのです。

日銀支店を擁する金融都市・小樽で銀行員として働くということは、社会の光と影を最も鮮明に見る立場にいるということでした。富める者と貧しい者、搾取する側とされる側の現実を、数字と人間の顔の両方で知り続けていたからこそ、多喜二は心の底から労働者の苦悩を理解し、それを文学として昇華できたのでしょう。

小樽は、エリート銀行員だった彼がなぜプロレタリア文学を書いたのかがわかる街でした。実際にこの地を歩いてみて初めて、多喜二の作品の真の源泉を理解することができたのです。

小樽で感じた文学の力

小樽の街を歩きながら、多喜二の足跡をたどることで、文学作品が生まれる背景の複雑さを実感しました。作家の実体験だけでなく、深い共感力と社会への眼差し、そして何より日々の仕事を通じて感じ続けた社会の矛盾が、時代を超えて読み継がれる作品を生み出したのだということを、改めて教えられた旅でした。

小樽は美しい観光地であると同時に、日本の近代化と格差社会の縮図でもあり、日本文学史においても重要な舞台なのですね。多喜二が見た風景と現在の小樽を重ね合わせながら歩く街歩きは、特別な体験となりました。

 

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