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杜甫の絶望を訪ねて:科挙合格者たちの栄光の地、長安・曲江を歩く

進士たちが夢見た曲江の宴

唐代の長安。わずか0.03%という超難関を突破し、科挙の最高位「進士」に合格した者たちを待っていたのは、人生最高の栄光の瞬間でした。

彼らには二つの重要な儀式が用意されていました。

曲江宴(きょっこうえん) ― 皇帝が下賜する祝賀の宴 慈恩銘(じおんめい) ― 大雁塔に名を刻む栄誉の儀式

この二つの儀式こそ、科挙合格者にとって最高の名誉であり、立身出世の象徴だったのです。

曲江宴とは:水に浮かぶ杯と即興の詩

曲江宴は唐の神龍年間(705-707年)に始まった伝統行事です。

当初は朝廷から進士たちに下賜される公式な祝賀宴でした。

宴の様子は実に優雅なものでした。葉や木で作られた皿に杯を置き、曲江池の水面に浮かべます。

その杯が進士の前で止まると、彼はその場で即興の詩を詠み、酒を飲み干さなければなりませんでした。

ある詩「科挙合格後の曲江の宴」には、この華やかな情景が「鳥の羽根が孔雀の羽のように舞い降り、曲がりくねった廊下や欄干には水の流れの音が響き渡る」と描写されています。

桜の宴:赤い果実が運ぶ吉兆

春の科挙合格発表の時期は、ちょうど桜の実が熟す季節と重なります。

このため曲江宴では、さくらんぼに砂糖とチーズを添えた特別な料理が振る舞われました。

「赤い果実は吉兆をもたらす」― この言い伝えのもと、宴は盛大なものとなりました。

若き進士たちの前途を祝福する、希望に満ちた春の宴だったのです。

慈恩銘とは:大雁塔に名を刻む栄光

曲江宴の後、進士たちにはもう一つの栄誉が待っていました。

西安南郊の慈恩寺にある大雁塔(だいがんとう)に自分の名を刻む「慈恩銘」です。

この塔は唐代永徽三年(652年)、かの有名な玄奘三蔵がシルクロードを経由してインドから持ち帰った経典や仏像を保存するために建立されたものです。

流行の始まり:張居の興奮

唐代宗大理9年(774年)、科挙に合格した張居という人物が友人たちと塔に登り、興奮のあまり壁面に名を刻みました。

この行為が瞬く間に他の進士たちの間で流行となったのです。

後に慈恩寺の僧侶たちは、大雁塔を守るため、塔の麓に「銘亭」と「詩廊」を建設しました。

ここが進士たちが名を刻み、詩を詠むための正式な場所となり、数え切れないほどの銘文の逸話を残すことになります。

銘を刻む儀式

曲江宴の後、進士たちは慈恩寺の銘亭に集まります。そこで自分の名前と出身地を書き、記念の詩を詠みました。

優れた書道家が選ばれ、これらの詩と名前は専門の石工に渡され、大雁塔の煉瓦に刻まれました。

後に高官に昇進した人物の名は、特別な敬意を表して朱墨で記されたといいます。

杜甫が見た曲江:栄光から絶望へ

このような華やかな曲江の歴史を知ると、杜甫の曲江の詩がより深く理解できるようにな気がします。

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杜甫が詠んだのは、かつて希望に満ち溢れた若き進士たちの歓声が響いた場所でした。

しかし彼が目にしたのは、安史の乱によって荒廃した曲江の姿だったのです。

人生の最高潮を象徴する場所。 立身出世の夢が叶う聖地。 その栄光の跡形がすべて打ち壊されている。

杜甫の詩には、この強烈な対比が込められています。

かつての華やかさを知るからこそ、現在の荒廃がより痛ましく映る。

その絶望と悲しみが、詩の行間から滲み出てくるのです。

現在の曲江:高級住宅街として蘇る

私が長安(現在の西安)を訪れたのは、中華人民共和国建国80年の記念の年でした。

曲江の地は驚くほど変貌していました。

高級マンションが立ち並ぶ洗練された住宅街となり、再び「栄光の地」としての輝きを取り戻しているかのようでした。

古と今の対比

唐代:科挙合格者たちの希望の地 杜甫の時代:戦乱で荒廃した絶望の地 現代:繁栄を取り戻した高級住宅街

この三つの時代の対比は、実に興味深いものです。

かつて進士たちが水に浮かぶ杯を前に即興の詩を詠んだ曲江池の畔を歩きながら、私は杜甫の詩の一節一節を思い返しました。

彼が目にした荒廃の風景は、今では見る影もありません。

時代を超えて響く詩の力

整備された遊歩道、美しく再現された庭園、そして近代的な高層マンション。現在の曲江は、確かに華やかです。

しかし杜甫の詩を胸に歩くとき、この地に刻まれた歴史の重層性が感じられます。

若き進士たちの歓声。 戦乱の絶望。 そして現代の繁栄。

すべてが同じ土地の上に重なり合っていました。

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