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下関条約の舞台を訪ねて―李鴻章という人物に思いを馳せる

> ※これは下関(春帆楼・日清講和記念館)を訪ねた旅行記です。李鴻章の役割は清朝末期シリーズの各所につながります——淮軍と軍閥化は「[咸豊帝の財政崩壊]」、1900年の東南互保は「[端王・載漪]」「[清朝はなぜ滅んだのか(補論)]」、北洋艦隊の軍費流用は「[醇親王家]」へ。

一枚の書の前で

今回の旅の目的は、じつは李鴻章ではありませんでした。平家終焉の土地を見に行くつもりで、たまたま近くに日清講和記念館があったので、入ってみただけだったのです。正直なところ、李鴻章のことは何も知りませんでした。

ところが、記念館に飾られていた李鴻章(り・こうしょう)の書を見た時、私は大変な衝撃を受けました。

「この人は、かなり教養のある人だ。ただものではない」。

理屈ではなく、筆跡そのものから伝わってくる何かがありました。あとで調べてみると、その直感には、思っていた以上にしっかりした裏付けがありました――そのことを、これから書いていきます。

 なぜ下関に、李鴻章の書があるのか

そもそも、なぜ下関に李鴻章の書が残っているのでしょう。

それは、下関が李鴻章にとって**生涯最大の屈辱の舞台**だったからです。

1894〜95年の日清戦争で、清朝は日本に敗れました。その清朝が講和の全権大使として送り込んだのが、李鴻章でした。1895年、彼は下関の春帆楼で、伊藤博文・陸奥宗光と向かい合い、下関条約に調印します。

しかも、この講和はただの外交交渉ではありませんでした。日本に敗れた北洋艦隊も、日本に押し込まれた淮軍(わいぐん)も、**どちらも李鴻章自身が手塩にかけて育てた軍事力**だったのです。自分の作り上げたものが敗れ、その後始末を、自分自身がつけに行く。これほど苦い役目はありません。

> **淮軍とは**――太平天国の鎮圧のために、李鴻章が郷里の安徽(あんき)で組織した私的な軍隊。彼の権力の土台であり、のちに清朝の近代軍の中核となりました。

そして講和の場所に下関が選ばれたことにも、日本側の明確な意図がありました。会議の候補地には長崎や広島も挙がりましたが、伊藤博文が開催の一週間ほど前に「下関の春帆楼で」と発表します。下関は関門海峡という狭い海峡に面しており、ここを日本の近代軍船が次々と通過する光景を清国使節団に見せることで、日本の軍事力を誇示できる場所でした。実際、会議の終盤には、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして海峡を次々に通過し、その光景が使節団に圧力を与えたと伝えられています。まさに「力の差」を視覚的に示す演出の場だったのです。

交渉の最中には、日本人青年(小山豊太郎)に狙撃されて頬に銃弾を受けるという事件まで起きています。血を流しながら、なお交渉の席に戻った――下関は、李鴻章という人物の重さがそのまま刻まれた土地なのです。

私が見た書は、そういう歴史の現場に残された一枚でした。

 春帆楼と李鴻章道

現在、料亭・春帆楼には日清講和記念館が設けられています。安徳天皇陵の近くに位置し、当時の建物は建て替えられていますが、入場料無料で見学できます。

特に印象深いのは「李鴻章道(李鴻章道路)」の存在です。清国全権大使として講和会議に臨んだ李鴻章が、宿泊場所から会議場まで歩いた道が、そのまま残されているのです。敗戦国の代表として、この道を歩きながら、彼は何を思ったのでしょうか。その心中を想像しながら、私たちも同じ道を辿ることができます。

 李鴻章は、なぜ「教養の人」なのか

私が書の前で感じた「教養」は、印象ではありませんでした。彼の経歴そのものだったのです。

李鴻章は、**科挙エリートの頂点**にいた人でした。1847年に進士(しんし=科挙の最終合格者)となり、しかも当代随一の学者官僚・曾国藩(そう・こくはん)に師事しています。詩文をよくし、書もその教養の自然な表れでした。

ここに、李鴻章という人物の面白い二面性があります。彼は淮軍という私兵を率いた、いわば「軍閥の元祖」でありながら、その本質は、儒教的な学問で身を立てた**士大夫(したいふ)**だったのです。刀を握る手が、同時に筆を握る手でもあった。

 

**士大夫とは**――科挙に合格し、儒教の教養を身につけた官僚・知識人の階層。中国では「読書人」として社会の指導層をなし、学問・道徳・統治が一体であることを理想としました。

私が下関で「教養のある人だ」と感じたのは、この士大夫としての李鴻章を、筆跡越しに正確に読み取っていたことになります。

 袁世凱は、なぜ「力の人」なのか

対照的なのが、李鴻章の後を継いだ袁世凱(えん・せいがい)です。

袁世凱は、**科挙に二度落ちています**。彼が世に出た道は、学問ではありませんでした。朝鮮での軍務、そして天津郊外の小站(しょうたん)での新式軍隊の編成という、**実務と軍事の道**です。

政治力、組織力、現実を読む嗅覚――これらは抜群でした。しかし李鴻章のような、詩文や書の教養を土台にした人物ではありません。

面白いのは、この二人が単なる前後の世代ではなく、**師弟に近い関係**だったことです。袁世凱は若い頃、その才能を李鴻章に見込まれて引き立てられ、李鴻章の後継者として北洋の実権を受け継いでいきました。李鴻章は臨終に際して、後任に袁世凱を推したとも伝えられます。

**教養の人・李鴻章から、力の人・袁世凱へ。**北洋のバトンは、こうして渡されたのです。

【私の見立て】「品のなさ」の正体

ここからは私の見立てです。

正直に言うと、私は李鴻章が好きです。そして袁世凱や、その後の張作霖(ちょう・さくりん)には、どこか**「品がない」**という感じを抱いてしまいます。

この「品」という感覚は、ただの好き嫌いのようでいて、実は時代の本質を突いているのではないか、と考えるようになりました。

清朝の軍事力を担った漢人の実力者たちは、世代が下るにつれて、その性格を変えていきました。

– **曾国藩・李鴻章の世代**は、儒教的な教養を土台にした士大夫でした。彼らにとって軍は手段であって、根っこは学問と道徳にありました。だからこそ、私兵という強大な力を握っても、「清朝の臣としての忠義」という歯止めが効いていた。李鴻章は最後まで清朝の臣として、屈辱の下関にも自ら赴きました。

– **袁世凱の世代**になると、その土台が変わります。学問の権威にではなく、兵と力そのものに立つ実務家。そして張作霖にいたっては、馬賊の出身から成り上がった、さらに純粋な「力の人」でした。

私が感じた「品のなさ」の正体は、これだったのだと思います。**教養と忠義という、王朝と分かち合っていた共通言語が、世代とともに薄れていったこと。**李鴻章の世代までは、その共通言語が彼らを体制の内側につなぎとめていました。ところが袁世凱の世代では、それが薄れ、力だけが残る。だから袁世凱は、清朝への忠義よりも自分の権力を優先して、あっさりと王朝に引導を渡すことができたのです。

私が下関で書を見て感じた「李鴻章の教養」は、じつは、**まだ王朝が信頼を託せる型の人物を持っていた、最後の世代**を見たということでもありました。その次の袁世凱には、もう託せなかった。一枚の書から、そんなことまで見えてくる気がするのです。

【私の見立て】ただし、「品のなさ」は時代の要請でもあった

とはいえ、公平のために、もう一つの角度も書いておきます。

袁世凱や張作霖の「品のなさ」を、ただ人柄の劣化として片づけてしまうのは、たぶん一面的です。

李鴻章が生きたのは、まだかろうじて「教養と忠義で秩序が保てた」時代でした。しかし袁世凱や張作霖が生きたのは、王朝が崩れ、力がすべてを決める乱世です。そういう時代には、詩文や書の教養よりも、兵を動かし、金を集め、裏切りを読み、生き延びる嗅覚のほうが、はるかに切実に求められました。

言い換えれば、彼らの「品のなさ」は、**乱世が必要とした資質**でもあったのです。李鴻章の教養は、秩序ある時代の産物でした。もし李鴻章が袁世凱と同じ乱世のただ中に放り込まれていたら、あの教養だけで生き延びられたかどうか――それは分かりません。

だから私は、李鴻章が好きだという気持ちはそのままに、袁世凱や張作霖を「品がない」と切り捨てる前に、一呼吸おくようにしています。**彼らの品のなさは、彼らが生きた時代の品のなさでもあった**のだ、と。

李鴻章と肅親王家の縁――長野に伝わる言い伝え

歴史の皮肉とも言える話が、長野県の「川島芳子を偲ぶ会」に言い伝えられています。肅親王家――川島芳子の生家であり、善耆の子・憲章の代――の人物と、李鴻章の孫娘が結ばれていた、という縁です。

その人物は満州国の要職にあったため、満州国の崩壊後、妻子を守るために自ら離縁し、一人でひっそりと暮らしたといいます。それでも捕らえられ、獄死したと伝わります。お子さんたちは、中国では肅親王家が「悪者」とされているため、その出自を語らず、今もひっそりと暮らしているそうです。

この話が中国側の記録にはほとんど残らず、日本の――それも長野の一地方の偲ぶ会に――言い伝えられているところに、歴史の非対称がにじみます。勝者の歴史からこぼれ落ちた人々の記憶が、海を越えた小さな会の口承の中にだけ生き残っている。肅親王家が中国で語られない理由も含めて、その背景は「[粛親王・善耆――日本を選んだ清の皇族]」と「[川島芳子]」に書きました。

李鴻章の孫娘が嫁いだという縁は、彼が清朝にとって、それだけ信頼にたる人物であったことの証でもあると思います。

おわりに――一枚の書が教えてくれること

下関で見た一枚の書は、ただの達筆ではありませんでした。

それは、儒教的教養で身を立てた士大夫が、私兵を率いる軍閥の元祖でもあり、そして敗軍の後始末を自ら背負った――そういう時代の最後の型の人物が、確かにここにいた、という証でした。その次の世代からは、教養は抜け落ち、力だけが残っていきます。

歴史上の人物を「好き」「品がある」と感じるとき、その感覚の奥には、たいてい理由が隠れています。下関の書の前で私が感じた小さな直感を手がかりにたどっていくと、清朝がなぜ滅びたのか、その担い手たちがどう変わっていったのか、という大きな流れにまでつながっていました。

コンピューターが字を書き、指定すればどんな書体でも出せるこの時代に、なぜ日本では今も書道をするのか――と問われれば、書を見れば、その人の教養や性格までもが伝わってくるからだ、と私は答えます。私は今回、清朝歴代の皇帝の書も見ました。習近平の書も、毛沢東の孫の書も見ました。それらについては、また改めて書きたいと思います。

◀ 関連:[咸豊帝の財政崩壊(淮軍と軍閥化)] | [端王・載漪(義和団と東南互保)] | [粛親王・善耆]
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