魏は、まず、秦と楚の同盟をこわし、秦を孤立させた上で義渠と結んで秦をせめようしました。
そのために、楚から来た夫人を殺害しようとしたり、後宮では、楚から来た夫人と秦王の仲違いをさせようとします。
秦が丹陽の戦いで楚に勝利しました。このことで魏夫人から嫌がらせを受けた楚からきた夫人である羋姝は、祝宴中の秦王に楚との関係修復を直訴。さらに秦楚対立の原因を作った張儀を非難してしまいます。秦王は激怒しました。羋姝は禁足となり、後宮の実権は魏夫人に戻りました。
魏夫人はさらに、楚の侍妾(夫人が生理や妊娠中の時、代わりに夜のお相手をする女性)であるミーユエ(後の昭穣王の母)の追放を目論みました。
着々と秦と楚を仲違いさせようとしたのですが、ここで思わぬことがおきます。
義渠です。
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義渠は遊牧民なので、中華の国とは考え方が違います。常にたくさん貰える方をとります。
魏は義渠に多額のお金と秦領内を自由に通過できる符節(割符)を渡してありましたが、義渠王は、魏の企みは、自分にとってなんの利も無いので、秦の庸芮からもっと多額の金を渡されると、「魏」の文字のある符節と魏からの密書を秦の恵文王に渡してしまいます。
魏の企みに気がついた恵文王は、後宮に楚の勢力を残し、魏の夫人と拮抗させるためにミーユエを羋八字にしました。
後宮の夫人たちは、祖国の利害を一身に背負っているのですね。
また、王もいつも、自分の国が有利になるよう、力の均衡を考えながら後宮に行くので、心休まる暇がないと思いました。
この件がなければ、昭穣王は生まれていないわけで、ずいぶん歴史が変わってしまったですね。