文繡皇妃 ―「皇帝」に選ばれながら皇后になれなかった女性―
額爾德特・文繡(1909年12月20日 ― 1953年9月17日)
清朝・末代皇帝 溥儀シリーズ
映画『ラスト・エンペラー』には描かれなかった史実がある。溥儀が自ら選んだ女性が、皇后の座につくことを周囲に許されなかった――というエピソードである。文繡は「皇帝に選ばれた皇妃」でありながら、「皇后になれなかった皇妃」として生涯を送ることになった。
一 名門の末裔、没落の中で育つ
文繡は、正黄旗(じょうこうき)に属する満洲族の名門・額爾德特家に生まれた。祖父は人事大臣を務め、一族はかつて朝廷内に名を馳せていた。しかし父が若くして亡くなり、家運は急速に傾いた。文繡と母は困窮した暮らしを余儀なくされる。
それでも文繡は、伝統的な教育を欠かさず受け、古典文学に深く親しんだ。内向きで静かな性格の少女は、書物の世界に安らぎを見出していた。
二 13歳、一族の名誉をかけた選考へ
1921年、文繡は13歳で秀女(しゅうじょ)の選考に臨む。清朝では既に倒れていたものの、紫禁城に住まう溥儀はなお「皇帝」の体裁を保っており、皇后選びの儀式も続けられていた。文繡にとってこの選考は、没落した一族の名誉を回復するための、ほぼ唯一の道であった。
三 溥儀の「一目惚れ」――写真の丸印
15歳の溥儀のもとに、4人の候補者の写真が届けられた。溥儀が自ら皇后を「選ぶ」という形式であった。
写真はどれもぼやけており、顔の識別が難しかった。溥儀は直感で選んだ。文繡の写真に写る、独特なチャイナドレスの装いが目を引いたのである。迷うことなく、溥儀は文繡の写真に丸印をつけた。
【私の見立て】 「写真がぼやけていたため直感で選んだ」という逸話は、溥儀自身の回想録(『わが半生』)に基づく記述である。
四 端康太妃の猛反発――権力者たちの思惑
しかし、この選択は即座に否定された。
端康太妃(たんこうたいひ)――光緒帝の晋妃であり、珍妃の姉妹――が強く反対したのである。隆裕太后の死後、端康妃は四妃の中で最高位となり、袁世凱によって宮廷政務を統括するよう任命されたことで、紫禁城の内政を実質的に掌握していた。彼女は溥儀を「養子」のように扱い、あらゆる面で彼を管理していた。
端康太妃の目に映った文繡は、「貧しい家の出で容姿も平凡」な存在にすぎなかった。それに対して婉容(わんろん)は、名門の出身で西洋教育を受け、英語を流暢に話す現代的な才媛であった。「新時代の皇后にふさわしいのは婉容だ」――そう確信した端康太妃は、激怒した。
彼女が怒りをぶつけた相手は溥儀ではなく、摂政である載灃(溥儀の父)であった。
「这个家听你的还是听我的?(この家はあなたの言うことを聞くのか、それとも私の言うことを聞くのか?)」
端康太妃はこの言葉で載灃を屈服させ、溥儀に「選び直し」をさせるよう強引に命じた。
皇帝の父でさえ、太妃の圧力には抗えなかったのである。
【私の見立て】 端康太妃はのちに溥儀の生母・瓜爾佳氏を叱責し、生母が阿片による自殺に追い込まれる一因ともなった。その権勢の強さは、溥儀自身も述べている。
五 太妃たちの権力闘争――皇后選びの真相
この皇后選びは、実質的には太妃グループ同士の権力闘争であった。
端康太妃は溥儀の七叔父・載澤(さいたく)と同盟を組み、婉容を推した。一方、長年対立してきた景儀太妃・栄恵太妃は六叔父・載洵(さいじゅん)と連携し、文繡を支持した。双方はこの機会に再び激しくぶつかり合った。
景儀妃は「皇帝陛下は既にお選びになったのですから、今さら覆すことはできません」と訴えた。しかし端康太妃の圧力には抗えず、溥儀は婉容の写真に丸印をつけざるをえなかった。
だが、問題が残った。先祖の掟によれば、溥儀が一度写真に印をつけた女性は、他の男性と結婚することができなくなる。文繡の写真には既に丸印が押されていた。
この事態を収拾するため、栄恵妃が妥協案を提案した。文繡に「淑妃」の称号を与え、「皇后一人、妃一人」という体制を確立する――これにより、騒動はようやく収束した。
六 「皇帝に選ばれた」という皮肉
溥儀は皇帝の名のもとに選んだが、その選択は覆された。婉容が皇后となり、文繡は淑妃として紫禁城に入った。
婉容は西洋式の教育を受け、英語に堪能で、進歩的な思想を持つ女性であった。美を愛し、虚栄心が強く、愛情をひとり占めにしたいという性格でもあった。なかでも注目すべきは、彼女が一夫一婦制を支持していたという点である。側室を持つことを当然とする旧来の宮廷秩序の中で、婉容はむしろ文繡の存在を疎ましく思っていた。溥儀の愛情を分け合うことが、彼女には我慢できなかったのである。
映画『ラスト・エンペラー』には、溥儀・婉容・文繡の三人が仲睦まじくベッドに入る場面がある。しかし史実の婉容の性格を知れば、このような和やかな共存はとうてい考えられない。三人の関係はむしろ、婉容による文繡への疎外と冷遇に満ちたものであった。
古典文学に親しみ、内向的な性格の文繡は、近代的な価値観を持つ婉容とはあらゆる面で対照的であった。紫禁城の中で、文繡はしだいに孤立していった。
【私の見立て】 さらに見落とせない点がある。溥儀が最初に選んだのは文繡であったという事実を、婉容は当然知っていたはずである。自分より先に「皇帝の選択」を受けた女性が、妃として同じ宮廷に住んでいる――そのことが、婉容の文繡への感情をいっそう複雑にしたであろう。嫉妬というより、もはや敵意に近いものがあったのではないか。
広告
【私の見立て】 ここで一つの対比を考えてみたい。もし婉容が「旧来の皇后像」を体現する女性であったならば、話は違っていたかもしれない。伝統的な皇后とは後宮の管理者であり、建前上は他の妃嬪に対しても皇帝の妻として分け隔てなく接することが求められた。感情を抑え、宮廷秩序を守ることが「皇后」の務めとされていたのである。
しかし婉容は違った。近代的な教育を受け、愛情を一身に受けたいという強い自我を持つ彼女にとって、そのような建前は受け入れがたいものであった。この「皇后像の違い」――旧来の役割規範と、婉容個人の近代的な感情――の衝突は、文繡への冷遇にとどまらず、のちの溥儀や日本軍との対立へとつながっていく伏線でもあった。婉容の悲劇は、別の記事で改めて論じたい。
1924年、馮玉祥のクーデターによって溥儀は紫禁城からの退去を迫られた。溥儀が沈黙する中、婉容は「退去しない」と強硬に言い張った。旧来の皇后であれば「皇帝の御意思に従います」と答えるべき場面である。しかし婉容は自分の意思を押し通した。対照的に、文繡は「退去してもよい」と答えた。
【私の見立て】 この場面における二人の言葉は、それぞれの本質を鮮やかに映し出している。婉容の「退去しない」は感情と虚栄心の発露であり、旧来の皇后規範からも近代的な現実認識からも外れた、純粋に個人的な執着であった。
一方、文繡の「退去してもよい」は、理知的な現実把握の表れではなかったか。共和国はすでに成立しており、「皇帝」の帝位はもはや実体を持たない。紫禁城とは、空虚な権威の殻に過ぎない――文繡はそう冷静に見切っていたのではないかと思う。内向的で古典的と見られた文繡が、実は最も現実を見据えていた女性だった、という逆説がここに浮かび上がる。(
紫禁城での暮らしは、文繡にとって深い苦しみの連続であった。古い教育を受けた彼女は、妃嬪として皇帝を支えようと心に決めていた。しかし婉容からの疎外、そして溥儀からの無関心の中で、その志は報われなかった。
苦しみが極限に達したとき、文繡は袖の中に鋭い鋏を隠し、自らの命を絶とうとしたことがあった。幸い、宦官がこれに気づき、思いとどまらせた。
【私の見立て】 「妃嬪として皇帝を支えたい」という文繡の思いは、旧来の価値観に根ざした、真摯なものであった。それだけに、疎外の痛みはいっそう深かったのではないか。鋏を袖に忍ばせた彼女の姿に、その孤絶の深さが見える。
1931年、文繡は歴史上初めて皇帝に「離婚」を求めた女性として知られることになる。だがそれは、また別の物語である。
文繡が離婚を決意した背景には、紫禁城での孤立した暮らしや溥儀との関係があったとされる。離婚後、文繡は北京で一般人として教師を務め、1953年に亡くなった。
映画『ラスト・エンペラー』が描かなかったもの
ベルトルッチ監督の名作『ラスト・エンペラー』は、溥儀の波乱の生涯を見事に映像化した。しかし、この皇后選びをめぐる権力劇――太妃たちの暗闘、溥儀の意思を踏みにじる宮廷政治――は描かれなかった。
ただし、映画はその本質を別の形で捉えていた。
映画の中に、太妃たちが薄暗い奥から溥儀をじっと見つめる、不気味な場面がある。一言も発さず、ただ視線を向けるだけのその描写を、多くの観客は「時代の重さ」や「旧習の圧力」として漠然と受け取るかもしれない。
しかしこの史実を知った上で改めて見ると、あの視線の意味が鮮明になる。太妃たちのまなざしは、「監視」であり「支配」であった。溥儀は玉座に座りながら、常にその視線の下に置かれていた。皇后選びでさえ、自分の意思を通すことができなかった。
【私の見立て】
「この家はあなたの言うことを聞くのか、私の言うことを聞くのか」――端康太妃のこの言葉を知れば、映画のあの沈黙の視線が、まるで違う重みを持って見えてくる。ベルトルッチは語らずして、その構図を映像に刻んでいたのかもしれない。
溥儀は皇帝でありながら、皇后を選ぶ自由すら持たなかった。文繡の物語は、清末の宮廷が「皇帝の権威」を形だけ残しながら、その実権をいかに喪失していたかを、静かに、しかし鮮明に物語っている。
【私の見立て】分岐点としての皇后選び
溥儀には、実際には皇后を選ぶ権力がなかった。端康太妃の圧力によって覆されたこの選択は、その後の歴史の大きな分岐点となった。
婉容は「皇后」という称号への執着を生涯手放さなかった。紫禁城退去を拒み、天津へ、そして満洲国へ――どの場面でも彼女を動かしたのは、その称号がもたらす栄光への渇望であった。日本軍は表向き婉容を慇懃に扱いながら、陰では「偽皇后」と呼んでいた。彼女が命がけでしがみついた「皇后」の実体は、すでに存在しなかった。
一方、文繡は1931年に離婚し、北京で教師として生きることを選んだ。「皇妃」の称号を静かに手放し、現実の中に自分の場所を見つけた。
端康太妃が溥儀の選択を覆さなければ、歴史はどう動いていたか。現実を直視する文繡が皇后であったなら、満洲国という選択肢はなかったかもしれない。
婉容の詳細については、別稿で改めて論じたい。


