この人は誰か
北条時行は、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男です。
元弘3年(1333年)5月、新田義貞らの軍勢によって鎌倉は落ち、北条一族は東勝寺で自害しました。幕府は滅びます。このとき時行は幼く、鎌倉を脱出して信濃へ逃れました。匿ったのは、諏訪大社上社の大祝をつとめる諏訪頼重です。
二年後の建武2年(1335年)、その諏訪頼重らに擁されて時行は挙兵します。信濃の諸氏を従えて東へ進み、足利直義を破って鎌倉を奪回しました。中先代の乱です。
けれども、その支配は二十日ほどで終わります。後醍醐天皇の許しを十分に得ないまま東へ下った足利尊氏に敗れ、時行は再び姿を消しました。そしてこの下向をきっかけに、尊氏は後醍醐と決裂します。南北朝の内乱は、ここから始まりました。
時行はその後、かつての敵であった南朝方に属して戦い続けます。北畠顕家に従って再び鎌倉に入り、さらに後年、武蔵野の合戦でも鎌倉に入りました。三度入って、三度とも保てていません。
そして正平8年・文和2年(1353年)、捕えられて処刑されました。鎌倉が落ちてから、十八年が過ぎていました。
諦めてよかったはずの人
時行は、諦めてよかったはずの人です。
鎌倉は落ち、父も兄も死に、北条は滅びました。どこかに隠れて生きる道もあったでしょう。名を伏せて生き延びた北条の縁者は、他にもいたはずです。
それなのに彼は、十八年戦い続けました。
なぜそこまでしたのか。この記事は、その問いだけを追います。
(時行を支えた風間・禰津・望月の三氏については、別稿「『逃げ上手の若君』の郎党は史実か」に書きました。)
時行は、庶流になるはずだった
漫画では、北条の後継はまだ決まっていないように描かれていました。けれども実際には、高時の嫡子は兄の邦時です。
邦時は正中2年(1325年)の生まれ。嘉暦元年(1326年)の嘉暦の騒動は、高時が執権を退いたあとの得宗家の継承をめぐる争いでしたが、このとき邦時はまだ二歳でした。幼すぎたため執権職は金沢貞顕、次いで赤橋守時へと渡りますが、得宗家の嫡子として据えられていたのは邦時です。
元弘3年(1333年)5月、鎌倉が落ちたとき、邦時は伯父の五大院宗繁に裏切られて捕えられ、殺されました。九歳でした。
ここで一つ、注意しておきたいことがあります。邦時の母は五大院宗繁の妹であって、高時の正室ではありません。**邦時もまた、正室の子ではなかった。**それでも嫡子とされました。
嫡と庶は、生まれだけで決まるものではなく、家が定めるものだったということです。
そして、もし邦時が継いでいれば、時行は弟として一流を与えられ、庶家の祖になるはずの人でした。北条氏の名越流も、極楽寺流も、金沢流も、赤橋流も、そうやって生まれています。時行は、その次の一つになる予定でした。
史実が起きたのは、その逆です。嫡子が死に、庶子になるはずだった弟が生き延びて、北条の名を担いだ。
お飾りでよかった少年が、北条になるまで
時行は、はじめから北条を背負っていた人ではなかったと思います。
鎌倉にいたころは、お飾りでもなんでもよかったでしょう。ただ楽しく暮らしたい。子どもとして、ごく当たり前の願いです。
それが諏訪頼重と出会い、北条の子であることを引き受けます。ここは意識的な決断でした。自分が何者であるかを外から与えられ、それを取る。
そして戦い続けるうちに、引き受けているという意識すらなくなっていきます。北条であることが、彼そのものになる。
✦ さとえの見立て
三段あったのだと思います。何者でもありたくなかった少年が、名を引き受け、やがて名そのものになった。
三段目まで行くと、降りられないのではありません。降りるという発想そのものが生まれなくなります。意識していないからです。
だから十八年戦えたのだと思います。意志の強さではなく、そうであること自体が止まらなかった。
名をもらうことと、自ら名を名乗ること
時行を裏切った者たちは、いずれも北条に近い場所にいました。
兄の邦時を売った五大院宗繁は、高時の側室の兄です。北条に最も近く、最も恩を受けた位置にいた人間が、九歳の甥を差し出しました。『太平記』によれば、その宗繁もその後は誰にも受け入れられず、行き場を失って果てたと伝えられます。
望月城を落とした小笠原貞宗も同じです。貞宗の「貞」は、北条貞時から賜った一字でした。父・宗長の「宗」も、北条時宗からの偏諱と見られています。親子二代にわたって、得宗家から名をもらっていた家です。
その貞宗は、元弘の乱では幕府方として赤坂城や千早城を攻めながら、足利高氏が翻るとこれに呼応し、新田義貞の鎌倉攻めに加わりました。そして勲功により信濃守護となり、旧北条氏の所領だった伊賀良荘を手にしています。
名をもらった家が、名をくれた家を滅ぼし、その所領を恩賞として受け取ったことになります。
✦ さとえの見立て
ここに、この記事の軸があります。
名をもらうことと、自ら名を名乗ることは違います。
名を与えるのは、与える側の行為です。もらう側は受け取るだけで、そこには何の覚悟もいりません。けれども名乗るのは、名乗る側の行為です。人前で名を口にした瞬間に、その名に伴うものを全部引き受けることになる。
貞宗は、生涯その名前でした。北条を滅ぼしたあとも、足利に仕えて信濃守護となったあとも、貞時から賜った「貞」の字を名乗り続けています。返しませんでした。
断っておきますが、これは非難ではありません。勝つ側につくのは、当時の武士にとってごく普通の、そして生き延びるために必要な選択でした。貞宗はよく戦い、信濃をよく治めた人です。
ただ、名をもらっただけでは、背負ったことにはならない。それだけのことだと思います。
足利尊氏──名を取り替えた男
その点で、足利尊氏は貞宗とは違いました。
尊氏は、もとの名を高氏といいます。「高」は北条高時から賜った一字です。ところが鎌倉を裏切ったあと、彼はその字を捨て、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を賜って、尊氏と名乗り直しました。
貞宗は、賜った字を持ったまま素通りしました。尊氏は、取り替えたのです。
取り替えたということは、その名を意識していたということでしょう。
そして尊氏には、背負っていたものがありました。『難太平記』によれば、足利家時は三代のうちに天下を取らせてほしいと願い、自らの命を捧げたといいます。今川了俊が書き残した話で、足利の側が後から整えた由緒と見るのが妥当です。けれども事実かどうかより、尊氏がその物語を負って立っていたという点が大事だと思います。
✦ さとえの見立て
だとすれば、あれは尊氏と時行という二人の争いではありません。
足利という家と、北条という家が、それぞれ一つの体を通して戦っていた。個人の勝敗で終わらなかったのは、そのためだと思います。
家の存続のために、みな必死でした。必死になれたのは、自分ひとりの人生の話ではなかったからでしょう。前にも後ろにも体が連なっていて、その途中に自分がいる。切れさせるわけにはいかない。
北条の亡霊
ここで肝心なことがあります。
北条の遺児が生きている、というだけなら、それほどのことではありません。血を引く者は他にもいました。けれども時行は、北条そのものになっていました。
滅んだのは幕府であって、彼ではありません。世が足利のものになっても、彼だけが北条のまま残り続けた。北条という型は、最後には時行という一つの体にだけ入っていたのです。
亡霊という言い方は、比喩ではないと思います。
✦ さとえの見立て
足利尊氏は、時行を相当に意識していたはずだと私は思っています。
勝敗はとうに決していました。土地も、軍も、大義名分も足利のものです。それでも、あの少年がひとり生きているというだけで、終わらなかった。
弟の直義は、中先代の乱で鎌倉を退く際、幽閉していた護良親王を殺害させています。時行方に担がれることを恐れたためとされます。北条の子が動いたというだけで、親王まで処分されたのです。当時の人間が、あの名にどれほどの力を認めていたかがわかります。
そして時行は、十八年生き延びました。三度鎌倉に入り、三度追われ、そのたびに姿を消してまた現れる。殺したはずのものが、何度でも戻ってくる。
あの体がある限り、北条は滅んでいませんでした。だから尊氏は、始末しないかぎり眠れなかったのでしょう。
そして正平8年・文和2年(1353年)5月、時行は捕えられて処刑されます。
そこで北条は、二度目に滅びました。一度目は1333年、鎌倉で。二度目は1353年、時行の体とともに。
逃げ上手と呼ばれた人
最後に、題名のことを書いておきます。
『逃げ上手の若君』。けれども時行は、北条の子であることを引き受けた瞬間から、一度も逃げていません。
逃げるのは戦法です。生き延びるための技であって、生き方ではない。鎌倉を落ち、諏訪に逃れ、敗れてはまた立つ。そのたびに彼は戻ってきました。降りる機会は、いくらでもあったはずです。
血は裏切りました。恩も裏切りました。それでも時行は、自分からは誰も裏切らなかった。
✦ さとえの見立て
七百年たって、この少年が多くの人に愛されているのは、たぶんそこです。強かったからでも、賢かったからでもない。何度負けても戻ってきて、そのたびに誰も裏切らなかったからです。
報われた人ではありません。三度鎌倉に入り、三度とも保てませんでした。北条は再興されず、彼の名で残った制度も所領もありません。だから長いあいだ、日本史のなかでほとんど語られない人でした。歴史に記録が残るのは、成果をあげた者だからです。
時代遅れでもありました。鎌倉幕府はもう終わっていたのです。彼が取り戻そうとしたのは、すでに過ぎ去った世界でした。同時代の目から見れば、勝ち目のない古い側に固執した少年だったでしょう。
それでも変わらなかった。忘れられても、時代に取り残されても、彼は最後まで北条でした。変わらなかったことだけが、彼の残したものです。
そして七百年後、そこが愛されている。
逃げなかった人が、逃げ上手と呼ばれている。私はこの題名を、そういう意味で読んでいます。



