はじめに
小倉城を訪れる前、正直なところ迷っていました。焼失した天守閣を修復する際に「どうせなら」と実際より見栄えよく作り直してしまったこの城。国宝でもない、史実に忠実でもない、エレベーターまである現代的な城に、果たして見る価値があるのだろうか?
修復というものは、本来なら様々な考証を重ねて元あったように復元するべきではないか。そんな思いを抱えながら足を向けたのでした。
城主の孤独な戦い
しかし、城内で解説を聞いているうちに、私の考えは大きく変わりました。
小倉城の城主・小笠原氏は徳川家の譜代大名でした。外様大名が多い中国・九州地方において、徳川幕府の「目付」としての重要な役割を担っていたのです。
幕末の長州征伐では、その立場ゆえに長州藩の攻撃目標となりました。援軍を要請しても、近隣の大名たちは静観を決め込み、誰も助けに来てくれません。孤立無援の中で戦い続け、ついには戦略的に自らの城を焼き払って抗戦したのです。
冷遇され続けた歴史
明治になっても、小笠原氏への冷遇は続きました。城は帝国海軍の基地として占拠され、その後の第二次世界大戦では1950年まで米軍に占領されていました。戦略的要衝としての価値を認められながらも、城の本来の主である地域住民からは遠い存在だったのです。
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市民の手に戻った喜び
米軍が引き上げ、軍隊もいなくなって、ようやく小倉城は小倉市民のものになりました。その時の喜びこそが、あの「実際より立派な天守閣」に込められていたのではないでしょうか。
城内には多くのボランティアの方々がいらして、訪問者を温かく迎えてくださいました。今では確かに市民の憩いの場となっているようでした。
修復の意味を考え直す
史実に忠実でない修復への疑問から始まった今回の訪問でしたが、帰る頃には全く違う感慨を抱いていました。
確かに学術的な観点から言えば、正確な復元の方が価値は高いかもしれません。しかし、長い間翻弄され続けた城が、ようやく地域住民の手に戻った時の想いを形にしたものだと考えると、この「盛った」天守閣にも深い意味があるように思えてきます。
エレベーターや現代的な展示施設も、多くの人に歴史を伝えるための工夫なのでしょう。完璧な復元でなくとも、そこに込められた人々の想いと歴史の重みを感じることができた、とても意義深い訪問でした。
行ってとってもよかった、と心から思います。