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韓徳譲——奴隷の孫から契丹皇族へ昇った名宰相【燕雲台】

> ※この記事は、私の遼(契丹)シリーズの要となる一篇です。これまでほぼ全記事に名前だけ出てきた「[蕭燕燕]」のかたわらの男——韓徳譲が、ようやく主役です。彼の生涯は、ただの出世物語ではありません。漢人が契丹の皇族にまで昇ったこの一代記こそ、遼という征服王朝が抱えた「漢化と融合」の、いちばん幸福な結実なのです。

ドラマと史実が、ほぼ一致する人

中国ドラマ『燕雲台』で描かれた韓徳譲(かんとくじょう)は、実在の遼の名宰相です。

ドラマでは蕭燕燕(承天皇太后)の恋人として登場しますが、実際の彼の人生もまた、漢人奴隷の孫から契丹皇族へと上り詰めた、まれに見る立身出世の物語でした。

そして珍しいことに、この人物は、ドラマと史実がほとんど食い違いません。

奴隷の血筋から始まった

韓徳譲の祖父・韓知古(かんちこ)は漢人でしたが、若い頃に契丹に捕らえられ、「宮分人(きゅうぶんじん)」——宮廷に属する隷属民——となりました。

けれどその才を太祖・耶律阿保機に見いだされ、ついには中書令(宰相)にまで昇ります(→「[耶律阿保機(遼太祖)]」)。

父の韓匡嗣(かんきょうし)も景宗に重く用いられ、祖父・父ともに、契丹の名門・蕭氏と縁を結びました。

> 二つの「韓」を混同しないために 遼には、漢人の名宰相に「韓」姓が二人います。

城郭を築いた韓延徽(→「[韓延徽(胡漢分治)]」)と、この韓知古→韓匡嗣→韓徳譲の家系。同じ「契丹に仕えて出世した漢人・韓氏」でも、別の家です。韓延徽は韓徳譲の祖父ではありません。

韓徳譲は970年、親の功績で官界に入り、「慎重な仕事ぶり」で知られて、順調に昇っていきました。

南京防衛戦——武人としての韓徳譲

979年、父・韓匡嗣が南京(現在の北京)留守に任じられると、韓徳譲は軍府の事務を担い、父に代わって南京を守ります。

同年、宋の太宗が北漢を滅ぼした勢いで幽燕に攻め込み、南京を包囲しました。韓徳譲は自ら城壁に登り、昼夜を問わず防衛にあたります。やがて名将・耶律休哥が高梁河で宋軍を破ると、韓徳譲も呼応して宋軍を挟撃し、これを再び破りました。

> この979年の高梁河こそ、ドラマで敵烈の物語と絡む戦線です。

史実では、韓徳譲は南京防衛という別の持ち場で武功を立てており、敵烈との対立は描かれていません(→「[敵烈と韓徳譲(ドラマ考察)]」)。

景宗の遺命と、権力の掌握

982年、景宗は臨終に際し、十二歳の息子(のちの聖宗)に位を継がせ、後事を韓徳譲と耶律斜軫(やりつしゃしん)に託しました。

皇后・蕭燕燕が「私は寡婦、子は幼く、貴族は強大で、国境も不穏。どうすればよいのか」と涙ながらに訴えると、二人は「我らを信じてくだされ。何も案ずることはありません」と答えた——と伝わります。

そして韓徳譲は、蕭燕燕にこう進言しました。

1. 大臣を入れ替え、諸王をそれぞれの領地へ帰す
2. 諸王の私的な会合を禁じる
3. 諸王から兵を取り上げる

これは、まさに中央集権の核心です。皇族各自が握っていた兵と財(オルド)を、中央へ吸い上げる——幼い聖宗の地位を盤石にするための、冷徹で的確な設計でした

(この「中央集権=オルドの奪い合い」については→「[遼で読む征服王朝(入門)]」「[澶淵の盟と蕭燕燕の中央集権]」)。

蕭燕燕との関係——どこまでが、本当か

摂政となった蕭燕燕は、韓徳譲をいよいよ重んじました。ドラマは二人を昔からの恋人として描きます。史実はどうだったのか。

正史の筆は慎重ですが、野史(民間の史書)は、あまりの寵愛ぶりから二人を恋人同士として記します。

そして何より雄弁なのは、事実としての破格の厚遇です。韓徳譲はやがて自前のオルドを与えられ、

臣下でありながら他の臣と同席せず、拝礼も免除され、契丹皇族の系譜に名を連ね——そして死後は、聖宗の意により、蕭燕燕と景宗の合葬墓のかたわらに葬られました。

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皇后とその夫(先帝)の眠る場所に、臣下が並んで葬られる。これは尋常ではありません。

正式に「恋人」だったと断じる証拠はありません。けれど、二人の絆が、当時の常識をはるかに超えて、公然と、深かったことだけは——その厚遇と、あの埋葬が、何より雄弁に物語っています。

権力の影——耶律虎古の死

韓徳譲の改革は、古くからの契丹皇族の反発を招きました。

985年、朝議で意見が対立した相手・耶律虎古(やりつここ)を、韓徳譲は衛兵の杖を奪って頭を打ち、殺してしまいます。にもかかわらず、お咎めはありませんでした。

彼の権力が、すでにそれほど大きかったのです。名宰相にも、こういう剥き出しの一面はありました。

軍事と内政——遼を最盛期へ

軍事。 986年、宋の太宗の再度の北伐(雍熙の役)を、蕭太后とともに撃退。988年、999年にも聖宗と並んで宋を破ります。

     戦のなかで多くの漢人を捕らえ、遼東へ移して農耕に従事させました。

内政。 韓徳譲は「賢を任じ、邪を去る」を掲げ、契丹・漢を問わず人材を登用しました。

    科挙を実施して有能な漢人官僚を引き上げ、地方官の三分の二を漢人が占めるまでになります。

経済。 戦と飢饉に苦しむ州の課税を軽くし、避難民の収容施設を設け、戦後に放置された田には収穫者を募って収穫の半分を与え、農具の税を免じ、物価の安定を図りました。

聖宗朝の繁栄は、この地道な改革の上に築かれたのです。

契丹皇族へ——奴隷の孫の、到達点

1004年、澶淵の盟ののち(→「[澶淵の盟と蕭燕燕の中央集権]」)、蕭太后は韓徳譲に、正式に契丹姓「耶律」と名「隆運(りゅううん)」を授け、宮分人の身分から解き放ちました。

「隆運」の「隆」は、聖宗(耶律隆緒)と同じ世代を示す字。彼は、皇帝と兄弟の世代として、契丹皇族の系譜に正式に加えられたのです。

漢人奴隷の孫が、征服王朝の皇族になる——中国史でも、ほとんど例のない到達点でした。

1009年、蕭太后が世を去ると、聖宗は「天子といえども、長兄は必要だ」と述べ、韓徳譲に「皇兄」の地位を与えます。

そして1011年三月、韓徳譲は七十一年の生涯を閉じました。先述のとおり、その亡骸は、彼が生涯を捧げた蕭太后と景宗の墓のかたわらに葬られています。

私の見立て——韓徳譲は、「遼」という王朝そのものだった

このシリーズで私は、征服王朝の根本の亀裂——「漢化するか、しないか」を追ってきました。世宗が漢化を急いで宴で殺された[火神淀の乱]は、その亀裂が暴力に転じた瞬間でした。

韓徳譲は、その正反対の極にいます。漢人の隷属民の孫が、才ひとつで昇り、契丹の皇族にまでなった。

これは、漢と契丹が、一人の人間のなかで完全に融合した姿です。

韓延徽が制度として描いた「二つの物差し(因俗而治)」(→「[韓延徽(胡漢分治)]」)、

火神淀が「漢化の失敗(暴力)」なら、韓徳譲は「漢化の成功(融合)」でした。

そしてもう一つ。蕭燕燕の中央集権という大事業は、彼女ひとりの手柄ではありません。

諸王からオルドを奪う三策を設計し、武で国境を守り、内政で繁栄を築いたのは、韓徳譲でした。

遼の最盛期は、契丹の女傑と、漢人の名宰相という、出自も性も超えた二人三脚で築かれた。だから聖宗は、二人を同じ場所に葬ったのでしょう。

韓徳譲の一生は、遼という、異なるものが溶け合って生まれた王朝の、美しい図だったのだと、私は思います。

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