韓徳譲の祖父韓志古は、若い頃に契丹に捕らえられ、「宮分人」(宮廷護衛の奴隷)となりましたが、後に遼の太祖耶律阿保機に見出されて、中書令に昇進しました。
韓徳譲の父、韓匡嗣も遼の景宗に取り立てられました。
韓徳譲の祖父と父は契丹后族である蕭氏と婚姻関係を結びました。
韓徳譲は韓匡嗣と蕭氏の間に生まれた息子でした。
970年、韓徳譲は親の功績により官界に入りましたが、「慎重な仕事」ぶりでで知られ、順調に出世しました。
979年、韓匡嗣が南京(現在の北京)留守に任命されました。
韓徳譲は、軍府の事務を扱い、父の代わりに南京を守っていました。
同年、宋の太宗が北漢を滅ぼした後、幽燕を攻略し、南京を包囲しましたが、韓徳譲は自ら城に登り、昼夜を問わず防衛に当たりました。
後に、耶律休哥が高粱河で宋軍を破った後、韓徳譲は宋軍を挟撃し、再度破りました。
これはテレビドラマ燕雲台に詳しく描かれています。
982年9月、遼の景宗死去
宮廷で政治力を発揮する
景宗は臨終前に、12歳の息子(のちの聖宗)に皇位を継がせ、韓徳譲と耶律斜轸にその指示を遺しました。
景宗の遺言を受けた皇后蕭燕燕は泣きながら、
「私は未亡人、子は弱く、貴族は強大で、国境もまた不穏な状態です。どうすべきでしょうか?」
と問いました。韓徳譲と耶律斜轸は「私たちを信じてください、何も心配ありません!」と答えました。
韓徳譲は蕭燕燕に、「大臣を変更し、各王に自分の領地に戻るよう命じ、私的な会合を禁止します。そして状況に応じて彼らから兵力を奪いましょう」と提案しました。
これらの手配が完了すると、聖宗の地位を盤石なものにしました。
母后の蕭燕燕は、摂政として朝政を執り行い、韓徳譲を更に寵愛しました。
韓徳譲の改革の過程で契丹皇族の耶律虎古が韓徳譲と対立しました。
韓徳譲は朝廷内で親衛兵の武器で彼の頭を打ち、彼を殺したことから、韓徳譲の権力がいかに大きいかが伺えます。
宋の軍事侵攻を退ける
986年、宋の太宗が再び北伐を行いましたが、韓徳譲は太后蕭燕燕と共に出征し、宋軍を退けました。
988年11月、韓徳譲は、聖宗と共に宋軍を大破し、ほぼ全滅させました。
999年10月、遼の聖宗と共に、韓徳譲、宋を破りました。
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宋との戦争中、韓徳譲は大量の漢人を捕虜とし、遼東に彼らを移住させ、農業にあたらせました。
科挙試験 漢族の官僚登用
韓徳譲は遼の聖宗を補佐する間、”賢者を任命し、邪悪を去らせる”という旗を掲げ、契丹族と漢族を問わず才能ある人材を任命しました。
科挙試験を行い、才能ある漢族の官僚を団結させ、大勢の漢族の官僚が報酬を得るようにしました。
報酬を得る地方の官僚のうち、漢族の官僚が三分の二を占めました。
韓徳譲の経済政策
韓徳譲は戦争と飢饉のに苦しむ州の課税を軽減し、避難民を収容する施設を作りました。
また、戦後、農民が逃げ出し、作物が収穫されずに放置されている土地に、作物を収穫する人を募り、収穫物の半分を彼らに与えるました。
農業用具の税を免除し、各郡の物価を安定させました。
韓徳譲、契丹皇族になる
1004年、韓徳譲は聖宗と太后・蕭燕燕と共に南征し、宋との間で澶渊の盟約を結び、その後帰国しました。
太后・蕭燕燕は正式に韓徳譲に耶律の姓を授けました。
韓徳譲には、専用の席が設けられ他の臣僚と同席することなく、拝礼もまた免除されました。
そして、契丹皇族の系譜に載せられ、韓徳譲は正式に契丹皇族の一員となりました。
1009年12月、太后・蕭燕燕が亡くなりました。
太后の葬儀が行われた際、聖宗は「天子であっても長兄が必要だ」と述べ、韓徳譲は「皇兄」の地位を得ました。
1011年3月、韓徳譲は、71歳で亡くなりました。