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4歳だった耶律賢の父母が殺された火神淀の乱とは ドラマ燕雲台とは少し違う その反乱を鎮圧したのが穆宗

火神淀の乱の原因

火神淀の乱は、遼の世宗(耶律賢の父)が

①晋からの降臣(中国人)を多用し、契丹の貴族を軽視したため。

②漢人の女性を皇后にたてた事。

③南下して戦争を起こすことを繰り返し提案し、各部族の貴族たちの反対を招いたこと

が原因で起こりました。

②については、契丹族から皇后(耶律賢の母)をたてました。

③については、うまくできませんでした。

世宗が中原から軍を撤退させる際、留守を任された人々は、中原の人々をうまく統治できませんでした。

結果的に追い出され、草原にまい戻ってきました。

ところが、世宗はその失態を非難するだけで、ある者は殺されました。

そのため、他の留守を任された人々は。次々と漢に降り、世宗は中原の統治権を失いました。

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火神淀の乱とは その時、耶律賢の近くには韓徳譲はいなかった

契丹貴族の不満を汲んで、宗族であり高官であった耶律察割は世宗に反乱することにしました。

4歳だった耶律賢も殺されるところでしたが、とっさに薪に隠れて助かりました。

テレビドラマのように韓徳譲に助けてもらったわけではないです。

宴会の席が突然殺戮の場面になったのです。

一人でとっさに薪に潜んで怯えて助けが来るまで待っていたのでしょう。

その極度の恐怖体験が耶律賢を病弱にしたと言われています。

穆宗の即位

耶律屋質は何とか逃げ出し、遼の太宗の長男である耶律璟(後の穆宗)に伝えました。

耶律璟が軍を起こして耶律察割を討伐し、反乱を鎮圧した後、皇帝の位に就きました。

彼は遼の穆宗となりましたが、このような経緯からか、暗殺を極度に恐れ、誰も信じず、部下を理由もなく殺害するなど、遼に恐怖を与えました。

 

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