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麗姫と始皇帝~月下の誓い~は史実とは違う 台湾の小説『秦始明月』を元に作られた

麗姫を調べてみましたが、実在の人ではありませんでした。

テレビドラマ麗姫と始皇帝~月下の誓い~の

元ネタは台湾の作家・温世仁の武侠小説『秦始明月』のようです。

武侠小説『秦始明月』によれば麗姫は実在しない

魏の貴族で、濮陽城の軍司令官を務め、荊軻の師匠である公孫瑜(こうそんゆ)には、孫娘の李季がいました。

李季は荊軻と結婚しました。

が、後に始皇帝に捕らえられ、始皇帝の寵姫となりました。

そして、秦の宮で荊軻の子・景天明を産みました。
公孫瑜の弟子であった荊軻は燕に行きました。

始皇帝は暗殺を恐れ、警備が厳重でした。

燕の太子の協力を得て、始皇帝を暗殺をしようとしましたが、失敗して殺されました。

李季も殺されました。

 

史実によれば荊軻は実在だが、女っけはなかった

伝承によれば、荊軻は元々斉の国出身でした。

彼はその後魏に移り住み、優れた剣術で魏の王に仕えようとしましたが、できませんでした。

紀元前228年秦が趙を滅ぼしました。

荊軻は燕に渡り、田光の推薦で燕の王に仕えました。

秦が趙を滅ぼした後、その軍隊は燕の南の国境に向けられたので、燕の王は怯えました。

燕国太子丹は秦王を暗殺するために荊軻を秦に送ることにしました。

燕国太子丹は紀元前232年に秦の人質となっていましたが、燕に逃げ帰っていて始皇帝の事がよくわかっていました。

荊軻は剣術に優れた実在の人物、だが始皇帝と美女を取りあった訳ではない

紀元前227年、荊軻は燕の地図と樊於期の首を持って秦に向かいました。
秦の王は盛大に荊軻を咸陽宮に呼んで面会させました。
秦の反乱軍の将軍樊於期の首と燕の地図を差し出した時、
荊軻は短剣で秦の王を暗殺しようとしましたが失敗しました。
逆に王の剣で重傷を負わされ、その後、秦の衛兵に殺されました。

紀元前226年、怒った始皇帝は燕に攻め入りました。

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燕の王は燕国太子丹の首を切り、遺体を秦に献上しました。

荊軻は剣術に優れた実在の人物ですが、残念ながら、秦王政と美女を取りあったわけではありませんでした。

 

 

 

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