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秦の始皇帝の妃たち:教養ある扶蘇の母  子供を甘やかした胡亥の母 阿芳宮伝説の愛妃

中国史上初めて天下を統一した秦の始皇帝。その偉大な功績は広く知られていますが、彼の私生活、特に妃や皇后については謎が多く残されています。

23人の息子と10人の娘がいたとされる始皇帝ですが、正式な皇后を立てることはなく、妃たちに関する公式記録もほとんど残されていません。

本記事では、わずかに伝わる妃たちの物語と、母親の子育てが後継者に与えた影響について探ります。

なぜ始皇帝は皇后を立てなかったのか

秦の始皇帝が皇后を立てなかった理由については諸説ありますが、政治的配慮が大きな要因だったと考えられています。

六国を統一した後、各地の貴族や旧王族との微妙なバランスを保つ必要がありました。特定の出身地の女性を皇后に立てることで他国出身者の反発を招くことを避けたのかもしれません。

しかし、彼の個人的信念(阿芳との悲しい恋)という説もあります。

記録に残る主な妃たち

鄭妃(扶蘇の母):教養ある温厚な母

始皇帝の長男・扶蘇の母とされる鄭妃は、鄭国の貴族出身という説が有力です(楚の貴族や斉の商人という説もあります)。

彼女は美しく温厚な性格で、始皇帝の寵愛を受けていました。教養も高く、『詩経』の「山有扶蘇」という詩を詠むのが得意だったそうです。

「扶蘇」の名前の意味と最後

始皇帝は長男に「扶蘇」と名付け、彼女への愛情を表現したとされています。「扶蘇」は「青々と茂る木々」を意味し、息子の健康と力強さ、そして高潔な人格への深い願いを込めた名でした。

また、『詩経』に由来するこの名は、秦王朝が中原文化を高く評価していたことを反映しています。

扶蘇は徳が高く才能に恵まれ、始皇帝の後継者と目されていましたが、趙高によって遺言が改ざんされ、自害に追い込まれました。扶蘇の死後、鄭妃も逮捕され、命を落としたと伝えられています。

胡妃(胡亥の母):競争心の強い女

秦二世皇帝となった胡亥の母・胡妃は、匈奴の貴族出身とされています。甘粛省にあった国の羌族の出身ともいわれ、つまり漢民族ではなかったようです。

彼女は美貌と勇敢さで知られ、自ら軍を率いて戦場に赴くこともあったという異色の女性でした。始皇帝とは深い絆で結ばれ、多くの戦を共に経験したといわれています。

寵愛を受けていたにもかかわらず、匈奴出身という理由で皇后になることはできませんでした。

胡妃(胡亥の母)の性格的欠点

胡亥の母は始皇帝の寵愛を悪用し、皇太子扶蘇を常に中傷する一方で、胡亥を称賛しました。

皇位簒奪の種を蒔いていました。

「胡亥」名前の意味

「胡亥」という名前には興味深い由来があります。「胡」は母の出身である北の少数民族を指し、「亥」は「害」(いたずらっ子、悪い子)から来ています。

母親が「悪い子ね」と呼んでいたからそれがそのまま名前になったようで、胡害「胡妃の悪ガキ」という意味です。

「害」をそのまま名前の漢字にするわけにいかず、書記が「亥」としたのですが、

奇しくも亥は十二支の最後なので、秦王朝の終わりを暗示しているともいわれています。

胡妃の傲慢と無知を育む教育

胡亥の母親は彼を甘やかし、教育を授けず、中原の文化を嘲笑し古典などを学ばせませんでした。

そのため、彼は我慢を知らず、権力欲が強かったものの、極めて無知で無教養した。

胡亥は趙高の支援を得て遺詔を改ざんして即位しましたが、即位後は趙高のいいなりになるしかありませんでした。

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政治のことなどまるでわからなかったからです。

このような王位簒奪の不安と自身の劣等感から、

他の兄弟姉妹に対して極めて残虐になりました。

『史記·秦始皇本紀』と『史記·李斯列伝』の記述によれば兄弟姉妹に四肢切断などの拷問を与えたりして虐殺しました。

実際に考古学者は発見しました。

他の皇子の金印と一緒にあった拷問器具と毒薬。

姉妹たちも、体をばらばらにされたようです。

 

阿芳(伝説の愛妃):悲恋の物語

阿芳の物語は、公式の史実というよりは民間伝説に近いものですが、始皇帝の人間的な一面を伝える興味深い話として語り継がれています。

伝承によれば、阿芳は邯鄲出身の薬草を摘む女性でした。幼少期を邯鄲で過ごした政(後の始皇帝)は、この地で阿芳と恋に落ちたといいます。

天下統一後、始皇帝は彼女を皇后に迎え入れようとしましたが、趙国出身で尚且つ貴族でもないただの庶民である阿芳は大臣や宮女たちから反対されました。

阿芳は始皇帝を困らせないために自ら命を絶ったと伝えられています。

始皇帝は愛した女性を称えるため、壮麗な阿芳宮を建設し、皇后をたてないと決めたといわれています。

2016年の考古学的発見

2016年5月、始皇帝陵から水銀に包まれた千年前の遺体が発見されたという報道がありました。

顔の復元が行われ、この遺体が阿芳である可能性を指摘する声もありますが、これは公式見解ではなく、慎重な検証が必要です。

母親の子育てが歴史を変えた

始皇帝の息子たちの運命を見ると、母親の教育方針がいかに重要だったかが分かります。

鄭妃は教養ある母として扶蘇に儒教的な教育を施し、徳の高い人物に育てました。

一方、胡妃は息子を甘やかし、必要な教育を与えなかったため、胡亥は無知で残虐な暴君となりました。

適切な教育を受けなかった胡亥の即位は、秦王朝を滅亡へと導きました。

わずか3年で秦は滅び、中国は再び混乱の時代へと突入します。

 秦の民には「秦を滅ぼすのは胡である」という予言がありました。胡の女性の息子である胡亥が最終的に秦王朝を滅ぼしました。これは当時、予言の成就と見なされました。

始皇帝の後宮の謎

始皇帝には扶蘇と胡亥以外にも多くの子女がいましたが、そのほとんどの母親は不明のままです。

これは始皇帝が意図的に妃たちの記録を残さなかったことを示唆しています。

権力の頂点に立った皇帝がなぜ皇后を立てず、妃たちの記録も残さなかったのか。

その理由は完全には解明されていませんが、統一後の微妙な政治バランス、六国の旧貴族への配慮、あるいは始皇帝自身の個人的な信念(阿芳)が関係していたのかわかりません。

まとめ

秦の始皇帝の妃たちの物語は、歴史の闇に包まれたままですが、わずかに伝わる記録から、彼女たちがそれぞれ異なる背景を持ち、中国史に大きな影響を与えたことが分かります。

母親や彼女の子育てが後継者の人格形成に決定的な影響を与え、ひいては王朝の運命をも左右したという事実に私はびっくりしました。

また教育をあたえられなかった胡亥が兄弟姉妹に残酷であったかと思うとコンプレックスの怖さに驚きました。

教養ある鄭妃の息子・扶蘇が適切な後継者となり得たのに対し、文化的に違う異民族の母に甘やかされて育った胡亥は暴君となり、秦王朝を滅亡に導きました。

始皇帝の妃たちの物語は、現代にも妻を選ぶ重要性と母親の役割の重要性を今に伝えているのではないかと思います


 

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