> ※『キングダム』で若き嬴政(えいせい=のちの始皇帝)が漏らす「わたしには、何人の父がいるのか」という言葉。その背景には、古代中国の複雑な「父」の概念があります。義父・仲父・假父——この三つの「父」の違いがわかると、なぜ嫪毐(ろうあい)の「假父」宣言が、始皇帝にとって耐えがたい侮辱だったのかが、くっきり見えてきます(「[呂不韋と始皇帝の対立]」で出てきた”仲父”の、詳しい説明でもあります)。
—
三つの「父」——血縁を超えた父子関係
古代中国には、血のつながらない「父」を表す言葉が、いくつもありました。今回のカギになる三つを、まず整理します。
義父(ぎふ)——道徳の絆で結ばれた父
義父は、血縁はないけれど、道徳的な義理と情愛で結ばれた、擬似的な親子関係。「義」は「義兄弟」の義、すなわち人の道としての結びつきを表します。養子縁組や、深い師弟関係などで使われ、血はつながらなくても、真の父子のような絆を示す、あたたかい言葉です。
仲父(ちゅうふ)——君主が与える、最高の敬称
仲父には、二つの意味があります。一つは親族語で、「父の次の弟=二番目の叔父」。「仲」は伯・仲・叔・季の二番目を指します。そしてもう一つが、政治的な最高の敬称としての用法です。
この敬称の由来は、春秋時代にさかのぼります。斉の桓公(かんこう)が、覇者へと導いてくれた名宰相・管仲(かんちゅう)を、深い敬意を込めて「仲父」と呼んだ——これが、「君主が、父に次いで敬うべき重臣に与える尊称」としての仲父の、はじまりです。つまり仲父とは、「あなたは、私の父に次ぐ存在だ」という、君主から臣下への、最大級の敬意の表明。呂不韋が秦王政から「仲父」と呼ばれたのは、この意味でした。管仲になぞらえられるほどの、王に次ぐ権威——それが呂不韋の「仲父」だったのです(→「[呂不韋と始皇帝の対立]」)。
假父(かふ)——「代理の父」という、危うい称号
假父の「假(か)」は、「借りた」「代理を務める」という意味(「假」は”かりもの・にせ”のニュアンス)。つまり假父とは、「父に代わって、父の役割を果たす人」。血縁がないのに、正式に父としての権威をふるえる立場を指します。母の再婚相手=継父のような位置、と考えるとわかりやすい。——この称号の危うさは、「実の父の権威を、代行できてしまう」点にありました。
嫪毐は、何をしたのか(史実)
ここで、嫪毐の登場です。彼はもともと、呂不韋が太后(趙姫=政の生母)との危険な関係から手を引くために、宦官と偽って後宮へ送り込んだ男でした(そのいきさつは→「[呂不韋と始皇帝の対立]」)。ところが嫪毐は、太后の寵愛を得て、長信侯にまで封じられ、太后との間に、ひそかに二人の子までもうけます。
そして、事件が起きます。『史記』によれば、あるとき嫪毐は、役人たちと酒を飲み、博打をしていて、口論になった。酔った勢いで、彼はこう口走ったのです。
> わしは皇帝の假父(かふ)だぞ。おまえたち下賤の者が、この俺に逆らうのか。
「わしは、王の”父”だ」——この一言が、命取りになりました。
噂は政の耳に入り、調べが進むと、嫪毐が偽宦官であること、太后との密通、二人の隠し子、そして「政が死んだら、自分の子を次の王にする」という謀りごとまでが、露見します。
追い詰められた嫪毐は、王と太后の印璽を偽造して兵を挙げますが(紀元前238年、政の加冠の儀のさなか→「[加冠の儀]」)、あえなく鎮圧され、車裂きの刑に処され、一族もろとも滅ぼされました。
なぜ「假父」宣言は、三重の侮辱だったのか
嫪毐の「假父」の一言が、なぜそれほど許されなかったのか。そこには、三つの侮辱が重なっていました。
第一に、皇帝の尊厳への挑戦。 古代中国で、父は子に対して絶対の権威を持ちます。王であっても、父の前では「子」にすぎない。
「わしは王の假父だ」と名乗ることは、「王を、自分の支配下に置く」と宣言するに等しかったのです。
第二に、血統の正統性への攻撃。 嫪毐は、太后の愛人にすぎず、政とは縁もゆかりもない。
その男が「假父(=母の男=おまえの父代わり)」を名乗ることは、「政の本当の父は誰なのか」を、あいまいにする行為でした。王の出生の正統性を疑わせることは、その統治権そのものを、揺るがします。
第三に、政治的権威の簒奪。 しかも嫪毐は、実際に「政の死後、自分の子を王に」と謀っていた。
これは、口先の侮辱を超えた、王朝転覆の反逆でした。——公衆の面前で、若き王の頬を、平手打ちにするような。政個人だけでなく、秦という国の威信まで、傷つける行為だったのです。
仲父は許され、假父は許されない——決定的な差
ここで、はっきりします。同じ「血縁でない父」でも、呂不韋の「仲父」は許され、嫪毐の「假父」は許されませんでした。なぜか。
仲父は、君主が臣下に”与える”敬称です。主導権は、つねに王の側にある。「私が、あなたを父に次ぐ者として敬おう」という、上から下への贈り物でした。
ところが假父は、臣下が一方的に、王の”上”に立とうとする僭称。しかも、血縁も実績もない愛人が、太后との不倫だけを根拠に、父の権威を主張した。
——仲父が「王が差し出す敬意」なら、假父は「臣下が奪おうとした僭越」。同じ”父”でも、向きが正反対だったのです。君臣の秩序、父子の倫理、王権の神聖——嫪毐の一言は、その三つを、いっぺんに踏みにじりました。
私の見立て——「父」の混乱が、始皇帝を作った
最後に、あの『キングダム』の言葉に戻ります。「わたしには、何人の父がいるのか」(※この台詞自体は漫画の創作で、史書の言葉ではありません。でも、政の置かれた状況を、みごとに言い当てています)。
若き政のまわりには、「父」が多すぎました。実父・子楚(荘襄王)。実の父は呂不韋だ、という消えない噂(→「[呂不韋と始皇帝の対立]」。ただしこれは真偽不明の噂)。
政治上の父「仲父」呂不韋。
そして、母の男でありながら「假父」を僭称した嫪毐。
——誰が本当の父なのかも、誰を父と呼ぶべきかも、定まらない。それは、一人の若者にとって、アイデンティティの危機であると同時に、秦という国の混乱の、象徴でもありました。
だからこそ、私はこう思うのです。嫪毐の乱を鎮め、仲父・呂不韋をも遠ざけた政が、やがて「皇帝」という、誰の上にも立つ、たった一つの称号を発明したのは——「父」に振り回された者が、もう二度と、誰にも「父」と呼ばせない、誰の”子”でもない至高の存在になろうとした、その裏返しだったのではないか。
父の混乱をくぐった少年は、父を持たない神になることで、その混乱に、決着をつけた。始皇帝という空前の称号の底には、こんな、ひどく人間くさい傷が、隠れている気がしてなりません。
そして、最後の父——天帝すら拒んで、それでも山に登った
もう一段、奥があります。そもそも、皇帝の”本当の父”とは、誰でしょうか。——古来、地上の支配者は「天子(てんし)=天の子」でした。その”父”は、血縁の父ではなく、天、人格化していえば天帝(上帝)。天が父で、皇帝はその子として地上を預かる——これが「[天命]」の骨格です(→「[牧誓・以徳配天]」)。
ところが始皇帝は、その「天の子であること」すら、拒みました。彼は「王(=天子)」では足りず、伝説の三皇から「皇」を、五帝から「帝」を取って、「皇帝」を作る。
この「帝」は、じつは上帝=天帝の”帝”です。つまり彼は、天帝の”子”におさまるのではなく、自分が”帝”になろうとした。
地上の假父も仲父も断ち切り、ついには天の子ですら辞めて、天と肩を並べる位に立とうとした——「父は天帝か」と問われたら、始皇帝はきっと「いや、私が帝だ」と答えたでしょう(力で天下を取り、天命を否定した彼らしく→「[秦は天命を否定したのに]」)。
けれど——ここに、たまらない矛盾があります。それでも彼は、泰山に登ってしまう。 天命を否定したはずの始皇帝が、統一のあと、わざわざ泰山で「[封禅]」を行い、天に向かって「わが治世を認めよ」と報告した。誰の子にもならないと決めた男が、結局は山に登って、空に語りかけずにいられなかった。父を拒んだ者ほど、いちばん父を意識していた。 假父・仲父の混乱を断ち切って「帝」になったはずの人が、天という最後の父の前で、なお承認を求めていた。——人は、いちばん逃れたいものから、いちばん逃れられないのかもしれません。始皇帝が本当に欲しかったのは、権力そのものよりも、「もう誰にも、父を名乗らせない」という安心だった。けれど、天だけは、彼にも、手放せなかったのです。
—
◀ 仲父の主:[呂不韋と始皇帝の対立(仲父はなぜ政敵に)]
◀ 乱の舞台:[加冠の儀(政の成人と、雍の反乱)]
◀ 誰の子でもない皇帝へ:[中華統一は理想か刷り込みか] | [秦は天命を否定したのに]
◀ シリーズ一覧:清朝末期シリーズ 完全ガイドへ
—



