ドラマ『歩歩驚心』や『雍正王朝』を観ていて、こんな場面に引っかかったことはないでしょうか。四皇子と十四皇子が揃って母のもとを訪れる。すると母は、明らかに十四皇子のほうを可愛がっている——。
演出の都合ではありません。これには、はっきりした理由があります。
そしてその理由は、二人が異母兄弟だったから、ではないのです。
二人は、同じ母から生まれた
まず前提の確認から。
- 第四皇子・胤禛(のちの雍正帝)——康熙十七年(1678年)生まれ
- 第十四皇子・胤禵——康熙二十七年(1688年)生まれ
生母はどちらも烏雅氏(うがし)、のちの孝恭仁皇后です。二人は十歳違いの、正真正銘の同母兄弟でした。
にもかかわらず、母の愛情は明確に偏っていた。清朝の宮廷史でも屈指の、こじれた母子関係です。
「嬪以上でなければ、我が子を育てられない」
清朝の後宮には、厳格な決まりがありました。嬪(ひん)以上の位を持たない女性は、自分の産んだ皇子を育てることができない。
烏雅氏は満洲正黄旗の包衣(旗人の家僕身分)の出身で、護軍参領・威武の娘。十四、五歳で宮中に入り、宮女から始まった人です。康熙十六年に康熙帝が初めて正式な冊封を行ったとき、彼女の名前はそこにありませんでした。常在か貴人——嬪より下の位です。
そして翌康熙十七年、彼女は第四皇子を産みます。
位が足りませんでした。
胤禛は生後一ヶ月ほどで母の手を離れ、当時の皇貴妃・佟佳氏(のちの孝懿仁皇后)に預けられます。康熙帝の従妹にあたる名門の女性で、自身の子には恵まれていませんでした。
皮肉なことに、烏雅氏が徳嬪に封じられたのは、その翌年のことでした。一年、間に合わなかったのです。
彼女が失った子どもたち
烏雅氏は六人の子を産んでいます。並べてみると、この母の人生の形が見えてきます。
| 子 | 生年 | その後 |
|---|---|---|
| 第四皇子・胤禛 | 1678年 | 生後まもなく佟佳氏に引き取られる |
| 第六皇子・胤祚 | 1680年 | 自分で育てるも、六歳で夭折 |
| 皇七女 | 1682年 | 早世 |
| 皇九女・溫憲公主 | 1683年 | 皇太后のもとで育てられる。二十歳で病没 |
| 皇十二女 | 1686年 | 早世 |
| 第十四皇子・胤禵 | 1688年 | 自分の手で育て、成人まで生き延びた |
長男は取り上げられ、次男は六歳で死に、娘たちは早世するか宮中の他所で育てられた。
六人のうち、自分の手で育てて成人まで生き延びたのは、末子ただ一人。
胤禵が生まれた康熙二十七年、烏雅氏はすでに徳妃でした。今度は資格があった。だから彼を、自分の手で育てられたのです。
母子の温度差は、愛情の量の問題ではなかったのだと思います。単純に、一緒に過ごした時間が違いすぎた。
即位——そして、五つの拒絶
康熙六十一年十一月、康熙帝が崩御し、第四皇子が即位します。
普通なら、生母にとってこれ以上の栄光はありません。「母は子によって貴くなる」——包衣出身の宮女が、皇太后になるのです。
烏雅氏は、それを喜びませんでした。
『清世宗実録』に、彼女の言葉が残っています。「わが子が大統を継ぐことになったが、これは私が夢にも望んだことではない」。
実録という公式記録に、この言葉が残ってしまっている。それだけでも異例です。
そして彼女の抵抗は、言葉だけでは終わりませんでした。
- 殉死を口にした——康熙帝の後を追うと言い出した
- 皇太后の称号を渋った——大臣たちの再三の説得を要した
- 徽号「仁寿」を拒んだ——「梓宮(棺)が山陵に移る前に尊称を受けるには忍びない」として固辞。半年がかりの説得の末にようやく受諾したが、冊宝の儀式は彼女の死まで行われなかった
- 宮殿の移動を拒んだ——皇太后が住むべき寧寿宮へ移らず、妃時代の永和宮に留まり続けた。雍正帝は毎日、永和宮まで挨拶に通うことになった
- 十四皇子との面会を求め続けた——遠征先から呼び戻され、兵権を解かれて景陵の守護に送られた末子との対面を、繰り返し願った
雍正元年五月、**即位からわずか五ヶ月あまりで、烏雅氏は世を去ります。**六十四歳。徽号の冊封式典は、ついに行われないままでした。
なお、彼女が柱に頭を打ちつけて自ら死んだ、という噂が当時から流布しています。これは雍正帝の帝位簒奪説と結びついた風説で、雍正帝自身が『大義覚迷録』で強く否定しています。史実として確認できるものではありません。
「生恩は養恩に及ばず」
一方、雍正帝が育ての母をどう見ていたかは、彼自身の言葉が伝えています。
「生恩は養恩の大なるに及ばず」——産んでくれた恩は、育ててくれた恩の大きさには及ばない。
皇帝がこれを憚りなく口にしたのです。生母が存命のうちに、あるいは没後に。
そして、育ての母・佟佳氏の弟が、隆科多でした。雍正帝が公文書で彼を「舅舅(叔父上)」と呼んだのは、この関係によります。そして隆科多は歩軍統領として北京の九門を握り、康熙帝崩御の際に遺詔を宣した人物です。
生母が身分ゆえに我が子を手放したことが、結果として、その子を帝位へ運ぶ人脈を作った。
【私の見立て】
ここからは史実の記述ではなく、私の読みです。
この母子を「不仲」の一語で片づけるのは、少し違う気がしています。
烏雅氏は、雍正帝を嫌ったのではなく——知らなかったのではないでしょうか。生後一ヶ月で引き取られ、十一歳まで他の女性のもとで育った息子。決められた日に挨拶に来る、丁重で他人行儀な青年。彼女にとってそれは、「産んだ子」ではあっても、「育てた子」ではなかった。
そして母子の双方に、選択の余地はありませんでした。彼女が位を持っていなかったのは、包衣出身という生まれによるもので、本人の意思とは無関係です。胤禛が引き離されたのも、彼が選んだことではない。制度が、二人のあいだに十一年の空白を作った。
そのうえで、烏雅氏の抵抗を私はこう読みます。あれは雍正帝への攻撃というより、末子への最後の庇護だったのではないか。
十四皇子は、遠征先から呼び戻され、兵権を奪われ、陵墓の守護という名の軟禁に置かれました。母にできることは、もう何もない。皇太后になることを拒み、宮殿を移らず、称号を受けない——それは、自分がまだ息子の側にいると示す唯一の方法だったのかもしれません。称号を受け取ってしまえば、彼女は新帝の母として、新帝の秩序の一部になってしまう。
そして五ヶ月後、彼女は死にます。冊封の式典を、ついに一度も受けないまま。
雍正帝の側から見ると、また別の景色が見えます。彼は生涯にわたって、猜疑心が強く、他人を信じず、休むことを知らない皇帝でした。ここまで書いてきた允祥や允礼の重用も、「自分にしか忠誠の向け先がない人間」を選び抜いた結果です。
そういう人格が、どこから来たのか。
生後一ヶ月で母から離され、十一歳で育ての母を失い、実の母には最後まで喜ばれなかった。——因果を断定するつもりはありません。けれど、彼が「与えられる愛情」を一度も安定して持たなかったことと、彼が「代わりのきかない忠誠」を部下に求め続けたことは、どこかで繋がっているように思えてなりません。
九王奪嫡に勝ったのは彼でした。けれど、母の一票だけは、最後まで得られなかったのです。
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