戦国時代中期、秦の強国化を支えた一人の名将がいました。その名は甘茂。
左丞相にまで上り詰め、智勇兼備の武将として名を馳せながらも、最後は異国の地で失意のうちに生涯を閉じた悲運の人物です。
彼の栄光と挫折の物語は、戦国時代の権力闘争の過酷さを物語っています。
学問を修めた若き日々
甘茂は若い頃から学問に励み、諸学派の学説を広く学びました。出身地は現在の安徽省にあたる地域で、当時は楚国の領域でした。この楚での教養が、後に彼の政治的・軍事的才能の基盤となります。
秦への登用と出世街道
張儀と樗里疾という二人の重臣の紹介により、甘茂は秦に迎えられ、秦の恵文王に仕えることになります。この出会いが、彼の運命を大きく変えることになりました。
やがて秦の武王の時代になると、甘茂はその才能を遺憾なく発揮します。
武王の「周の朝廷を求める」という野望の実現を助け、その功績により左丞相という最高位にまで登り詰めました。
軍事的功績~秦の版図拡大への貢献~
甘茂の軍事的才能は目覚ましいものでした。
漢中攻略では戦略的要衝を確保し、秦の勢力圏を大きく広げました。
なんといっても、彼の最大の功績は宜陽攻略でしょう。
この戦いの前に、甘茂は秦の武王と「息壌之盟」を結び、後方からの援軍を確保することを誓約させました。
この周到な準備により、甘茂は圧力に耐えて宜陽を占領し、韓兵6万人を討ち取るという大勝利を収めます。
この宜陽攻略は、秦が中原へ東進する道を開いた歴史的転換点となりました。
秦の強国化への道筋をつけた、まさに画期的な勝利だったのです。
卓越した政治的手腕
甘茂は単なる武将ではありませんでした。彼は君臣関係の作法を熟知した、優れた政治家でもあったのです。
宜陽攻めの前に武王と盟約を結んだことは、その政治的洞察力の表れです。
戦場での勝利だけでなく、朝廷内での立場を守るための備えも怠らない——これこそが甘茂の真骨頂でした。
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悲劇の始まり~武王の突然の死~
しかし、運命は残酷でした。武王が重い鼎を持ち上げている最中に急死するという予期せぬ事態が発生します。
この突然の死により、甘茂は最大の政治的後援者を失ってしまいました。
新たに即位した秦の昭襄王は甘茂に信頼を寄せず、彼の立場は一気に危うくなります。
部外臣ゆえの苦境
甘茂には致命的な弱点がありました。それは部外臣(外部から登用された臣下)であったという出自です。
秦の朝廷には、生粋の秦の貴族たちが勢力を持っていました。部外臣である甘茂に対し、彼らは嫉妬と警戒心を抱いていたのです。
政敵からの絶え間ない攻撃
朝廷に多くの敵を抱えていた甘茂は、昭襄王の前で絶えず讒言されました。
宜陽征伐などの軍事作戦で韓をはじめとする諸国と敵対関係を築いていたことも、彼の立場をさらに悪化させます。
強力な後ろ盾を失い、政敵からの攻撃にさらされ続けた甘茂にとって、秦での地位維持はもはや不可能となっていきました。
異国への逃避行と孤独な最期
秦の貴族による迫害と排斥に耐えかね、甘茂はついに秦を去る決断をします。
まず斉へ、そして魏へと逃れました。しかし、彼には帰る場所がありませんでした。
故郷の楚に戻りたくも、宣太后(楚出身の女性)が秦で権力を握っていたため、
甘茂は楚に戻ることもできなかったのです。
こうして、かつて秦の版図拡大に多大な貢献を果たした名将・甘茂は、憤りと無念を胸に、魏の地で生涯を終えることになりました。
故郷を遠く離れた異国での孤独な死——それが、智勇に名を馳せた左丞相の最期だったのです。
まとめ
秦の強国化への道を開いた功労者でありながら、最後は異国で客死せざるを得なかった甘茂。
どれほど優れた才能を持ち、どれほど国家に貢献しても、政治的後ろ盾を失い、部外者として疎まれれば、
その栄光は一瞬にして崩れ去るというなんとも残酷な話でした。



