この文章は、清朝の皇女・川島芳子(愛新覚羅顯㺭)と長野県の旧制松本高等女学校(現在の蟻ヶ崎高校)との関わりを記したものです。歴史的な興味深いエピソードが含まれています。
馬での通学
川島芳子は養父・川島浪速の邸宅があった松本市浅間温泉から、旧制松本高女まで馬に乗って通学していました。当時の松本市民は「さすが清朝のお姫様」と噂し、いずれ清国に帰るのだろうと話題にしていたそうです。
私の高校の先生も川島芳子さんが、馬で学校に通っていたのを見たそうです。
現在の蟻ヶ崎高校の敷地には、彼女が馬を繋いでいた木が今も残されています。(上記の写真)ただし、校舎は建て替えられ移転しており、その木には標識もないため、「川島芳子を偲ぶ会」のメンバーに教えてもらわなければわからないとのことです。
卒業できなかった理由
1922年、川島芳子の実父である肅親王善耆が旅順で崩御しました。彼はいつかは北京に戻り、皇国復興しようと望みながら北京に帰れないまま旅順で崩御したのです。
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親族は、北京で葬儀をすることに決め、旅順から満鉄の10両編成の特別列車で親族全員で北京に入り、肅親王墓地で葬儀が盛大に行いました。親族はしばらく北京の肅親王府にいて、それから旅順、大連へとうつりました。川島芳子も親族として葬儀に参列するため日本を離れました。
中国での葬儀は盛大で時間もかかりました。
学校側は欠席を了承していましたが、その間に松本高女の校長が交代。新しい校長は出席日数不足を理由に川島芳子を退学処分としてしまいました。そのため、卒業名簿には彼女の名前が残っていないそうです。
学校側が、親王葬儀というのはどれだけ盛大なものか理解できなかったのかとくやまれます。
肅親王善耆の詩
肅親王善耆が北京脱出時に詠んだ詩
幽燕は故国にあらず
嘯きながら遼東に返り
馬を回し烽火を看る
中原はほのおに落つ
この詩には、清朝の滅亡と故国を失った王族の悲哀が込められています。



